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第7章ー第76話 触れたい
「係長?」
「あー、むしゃくしゃする! お前のせいだからな!」
保住は田口を指差して怒っていた。
田口にとってみたら、なぜ彼が怒っているのか見当もつかないのに、上司が怒っていると思うと、つい自然に頭が下がる。
「申し訳ありません!」
なぜ自分が謝らなくてはいけないのか。
しかも、なぜここに彼がいるのかもわからない。避けられているはずなのだが。
「さっさと開けろ」
「は、はい!」
覚束ない手でキーを打ち込み、マンションの入り口を解錠する。
「あの」
「お前ばかり飲みに行って!」
「だって、係長は立て込んでいて欠席だと」
「立て込んでなどいない! 仕事をしていただけだ」
「はあ……」
偉そうに言われても、そういうことではないと思うのだけど。でも酔っ払っていて、良く思考が働かないようだ。すっかり彼の言いなりになって、エレベーターから降りて彼を自宅に招きいれた。保住は遠慮することなく、ズカズカと家に上がり込んだ。
「まったくの時間の無駄だ。お前のせいで、ちっとも仕事がはかどらない」
「はあ……で、なんでおれが、それで怒られるんですか。おれのせいなのでしょうか。なにかしでかしましたか?」
「お前はなにもしていない! 八つ当たりに決まっているじゃないか! 八つ当たりしてもいいと言っていたからな!」
堂々たる八つ当たり宣言。思わず笑い出す。
「なんなんですか。突然来て。保住さんらしくて笑えます」
「失礼だな! おれらしいって……」
ビールをあおってから保住は言葉を切ってから、笑ってしまったようだ。
「ああ、おれらしいかもな」
「はい。あなたらしい」
ほっこりしてしまう。ひとしきり笑った後、保住はポツリと言った。
「――二日しか持たなかった」
「え?」
「お前に甘えることを止めてみて、二日しか持たなかったと言ったのだ!」
言葉はわかる。
わかるのだが。
意味がわからない。
――なにを言っているのだ?
「甘えるとは?」
「おれは、お前に甘えているようだ」
「ど、どこがです?」
「すべてだ!」
酔いのせいなのか、それとも恥ずかしいのか。保住は顔を赤くした。
「今まで仕事の肝を人に任せたことはなかったのに、お前にはやらせてしまう」
「はあ……」
「プライベートのこともそうだ。人に話をするようなタイプではなかった」
「はあ……」
「一人でいて寂しい気持ちになったこともない!」
――恥ずかしいのか? そうか。
保住は、精一杯自分の気持ちを述べているのか。恥ずかしさからなのか。少し潤んだ瞳が、妙に艶めかしくて胸が高鳴った。自分も素面 ではない。
触れたいと、そう思ってしまう。
我慢できなくて、つい。不意に差し出した手が保住の頬に触れた。保住の頬は冷たかった。
「田口……?」
――触れた。とうとう、触れてしまったのだ。
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