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第8章ー第79話 祖父

 保住に指定されてやって来たのは、梅沢市立総合病院だった。 「ここでしょうか?」  車を止めて保住を見る。 「すまなかった」  祖父の件だということは予測できた。深刻そうに声を潜めている様子を見ると、体調でも悪いのだろう。ここへの道すがら、保住は言葉数少なかった。そういう時は黙っているのが一番ということもわかっているので、田口はじっと黙ってハンドルを握っていたのだった。 「帰りも送ります。おれ車で待っていますから」  田口はそう言うと頭を下げた。しかし、保住は車を降りる素振りはない。むしろ、軽くため息を吐いたかと思うと、田口の名を呼んだ。 「田口。もう一つ甘えもいいか」 「はい。どうぞ」 「一緒に来てくれ」  保住の願いは田口にとったら驚きの内容であった。赤の他人である自分が同席をする理由は見当たらない。しかも友人とも言い難い。親友でもない。ただの職場の上司と部下である。部外者の自分が同席してもいいものか惑った。 「あの。おれでいいのでしょうか」 「いいから、お前に来て欲しいと言っているのだ」 「しかし……こんな大事な局面に自分が。いいのでしょうか」 「願いを聞いてはくれないのか?」  彼のその言葉にドッキリとした。保住は真剣な眼差しで自分をまっすぐに見据えてくるからだ。迷っている場合ではないと思った。自分は保住の要望に答えなくてはいけないのだ。  田口は大きく頷く。 「わかりました。おれでよければ」  田口の返答に、ほっとしたかのように保住は表情を緩めた。 「叔父からの電話でな。祖父の容態が悪いと言うのだ。やはり一目も会わずにあの世に行かれたのでは、おれの心が戸惑う」 「それはそうですね」 「気持ちは乗らないが、仕方がない」 「はい」  いつもだったら颯爽と歩く保住だが、気が乗らない気持ちが全面に出てきるのだろう。いつもよりもスローペースで歩く保住の斜め後ろを、田口はゆっくりと歩いて着いて歩いた。  向かった先は七階の個室病室だった。明らかに他の病室とは違う素材で作られている扉を眺めると、ここは「特別室なのだろうな」ということが予測された。  なんとなくではない、確実に気が重い。隣に立つ保住が一番そう思っているはずだということも理解しているのに、関係のない自分まで緊張してしているのだった。  梅沢市では、地方銀行である梅沢銀行が幅をきかせていた。保住の祖父は金融世界のドンである。  ――恐ろしい。どんな強面の御仁がいるのだろうか。  しかし静かだと思った。保住は危篤と言っていたはずだが、こんなに穏やかなものなのだろうか。まだ午前中ということもあって看護師たちは、患者の療養の世話に追われている。  危篤だったら、この部屋にたくさんのスタッフがいてもよさそうな話だ。しかも、保住家の他のメンバーはいないのだろうか。様々な疑念が脳裏をかすめるが、隣の保住は相変わらず強張った表情を浮かべていた。それに気がついて、田口はそっと彼の肩に手を添えた。 「大丈夫ですよ」  自分の不安な気持ちを抑え込んで声をかけると、珍しく顔色の悪い彼は、そっと田口を見た。 「田口」 「一緒におります。大丈夫です」  彼の言葉に観念した様子で、保住は一呼吸おいてからドアをノックした。 *** 「はい」  中から明るい男の声が聞こえる。叔父の征貴(まさたか)の声だった。今朝、電話をくれた張本人でもある。 「おはようございます。尚貴ですが」 「どうぞ。待ってました。なおくん」  がらっと扉が開くと、恰幅のいい人当たりの良さそうな男性が顔を出した。 「やあ、待っていたよ。悪いね。朝から」  ほんわかした笑顔の叔父、征貴(まさたか)の表情を見た瞬間、騙されたと理解したのか、保住は後ろに下がった。  ――危篤などではないということだ。 「帰ります」  そう言った保住の腕をいち早く捕まえた征貴(まさたか)は、「そう言わないでよ」と苦笑いだ。体格で言うと、征貴に敵うわけもない。腕を振り払おうとしても、ぎっちりと掴まれていて、逃れることは出来なそうだった。  征貴はそこで田口に気がついたようだ。ふと視線を彼に止めた。保住は田口を紹介した。 「知人です。足がなかったので送ってもらったのです」 「なおくんが友達を連れてくるなんて、――いや。初めてかな」 「そう言うわけでもないと思いますけど」  田口は礼儀正しく頭を下げる。よくできた部下だと思った。 「田口です。申し訳ありません。このような大事な場面に、部外者の自分が同席させてもらってしまって……」  田口の挨拶に征貴は笑った。 「随分、お堅いお友達だね」 「田口は根が真面目で」 「そのようだね」 「しかし、それとこれとは別です。申し訳ないですが、おれは……」 「そんなこと言わずに」  征貴は、強引に保住の腕を引いた。保住は軽々と病室に入れられた。中は普通の病室の何倍の広さがあるのだろうか。ホテルのような作りだ。思わず周囲を見渡す。  窓辺に木目調のベッドが置いてあり、そこに新聞を広げている老人がいた。線の細い、柔らかい瞳の男。白髪はだいぶ薄くなっているが、自分に似ていた。二人が血縁であることは誰の目から見ても、一目瞭然であろう。田口はきょとんとしていた。た。 「尚征(なおまさ)……?」  そう呟いた彼の言葉に、保住は表情を険しくした。 「父ではありません」  また、その言葉を受けた老人は、はっと弾かれたように顔を上げて、首を横に振った。 「すまない。朦朧としているのだろうか。尚貴だな」 「そうです。初めまして、でしょうか?」  保住は表情が硬い。田口はその後ろで大人しく様子を見ているようだった。 「初めてではない。お前は覚えていないと思うが、君が小さいときに一度だけ、抱かせてもらったことがある」 「そんなことがあったのでしょうか。初耳ですが」 「そうだろうな。加奈子さんに、こっそり叶えてもらった望みだ。彼女は口外しないでくれていたのだろう」 「母、――ですか」  意外な話だった。母親からはそんな話は聞いたこともない。いや、確かに、父親が死んでから、彼女が祖父と連絡を取っているような気がしていた。だがしかし、実家を出ている身分で、母親が保住家とどのような付き合いをしてきたかなど、興味もないし、教えてもらうほどのことでもないと思っていたのだ。  しかし、よくよく考えてみれば、みのりは祖父の息のかかった銀行に就職しているのだ。自分だけが蚊帳の外で、母親もみのりも、彼とは顔を合わせているのではないかという疑念がよぎった。  ――別にそれはそれでいいのだ。  祖父との確執は父親の問題だ。自分には関係がないはずなのだ。なのに、なぜか母親やみのりが裏切っていたような気持ちに陥るのはどういう了見なのだろうか。突然訪れた祖父との邂逅に、混乱しているに違いない。保住はそう確信した。  なにせ保住の祖父である征司(さまし)は、齢八十を過ぎているというのに、この迫力だ。ただ、そこに座しているだけなはずなのに、人を威圧するようなその感覚。カリスマ的な、圧倒的力の前に、人間とは無力だ。ただ、恐怖を抱くしかない。    澤井とは違う、もっと別次元のその威圧感に、保住は圧倒されていた。

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