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第9章ー第88話 控室での情事

 保住の態度に、大友は肯定の意味を感じ取ったのか、不敵な笑みを浮かべた。 「嬉しいよ。物わかりが良い子は好きだ」 「物わかりが良いとは言い難いですが、――面倒も嫌いだ」 「そういう子もまた、いい」  頬に添えられた大友の手は大きい。太い指がくすぐったく感じられた。分厚い唇が、自分の唇に触れてくると、柔らかくてふにゃふにゃした感覚を覚えた。  日本酒の香りがする。  大友は相当酔っているようだ。軽く口を開くと、誘われるように大友の舌が入り込んでくる。酒の味が保住の口内に広まっていくのが不愉快だった。  目を閉じた。目の前の男がどうでもいい人間で、大友だと言うことを認識したくないのだ。目を閉じて相手をシャットアウトしたい。  そんな保住の心中など、察する余裕もない大友は無我夢中の様子だ。そのキスは容赦ない。余裕がないのがよくわかる。貪るような舌の愛撫。息もつけないくらいだった。 「ん……ッ」  ――苦しい。息がしたい。  大友の躰を引き離そうと押し返しても叶わない。首をもたげても大きな手によって引き戻されるのだ。意識がかき乱されるのが嫌で、彼の肩を強く押すと、ふと離れた唇から入り込んでくる新鮮な空気に咳き込んだ。 「すまない、つい。夢中に」 「大、友さん、勘弁してくださいよ」 「だって」  彼は熱っぽい視線で保住を見る。 「やめられないだろう。保住」 「な、なにを……」 「君は自分のことだから気がついていないかもしれないけど」 「なんです?」 「男を(そそ)るタイプだ」 「は?」  バカにされているみたいだ。男が、「男を唆るタイプだ」などと言われて喜ぶわけがない。むしろ、侮辱されいているようでプライドが傷ついた。 「な、なにをバカな……」 「知らないだろうな。うん。でもね……」  大友はそっと保住のネクタイに手をかけてから引き抜く。その間の彼の瞳は、まるで女性でも抱くときのような、情欲に支配されている色をしていた。  息を呑んで、彼の様子を伺った。大友は太い指で、開かれた首元――保住の鎖骨を撫でた。さわさわとした感触。思わず吐息が漏れた。  「男を唆る」なんて、そんな言葉を言われたことがない。いや、そもそも男とこんな風になったことがないから、わからない。 「……失礼なことを言わないでください」 「失礼なことだろうか?」  彼は最後まで言い終わらないうちに、更に唇を重ねてくる。彼の言葉の意味がわからないせいで、思考は更にかき乱された。  ――なにを言っているのだ。この男は。  元々血迷った男だから、真に受ける必要はないのに。こちらが誘っているみたいに言われるのは心外だ。何度もキスを繰り返されると息が上がった。  ――こんな男相手でも、躰は素直に反応するものなのだろうか?  そんなことを冷静に判断するのも束の間のこと。 「これ以上もしたい。――いいでしょう?」  耳元でそんな言葉を囁かれても、意味がわからないくらい、頭の芯がぼうとしていた。  唇を貪っていた舌が、今度は耳に差し込まれる。 「はっ、嫌だッ……っ」  ねっとりと絡み付くように、保住の耳の輪郭を丁寧に撫でるその感触に躰の奥底が疼いた。思わず、大友のスーツを握りしめた。  彼はその反応を、良い方に受け取っているらしい。  涙で霞む保住の瞳を覗き込んで、嬉しそうに尋ねてきた。 「感じるんだね。保住。ああ、なんて可愛い反応だ」 「や、止めて……ッ」  腰がざわざわとして逃れたいと躰が自然に捩れるが、大友の躰の下からは逃れられない。 「いつも冷たい態度の君じゃないみたい」  そう囁きながら、余計に耳を口に含んだ。  ――言うな!  そう思うのも、束の間の理性だ。直ぐに大友の刺激で頭がいっぱいだ。  ――だめだ。流されていく。いつものパターンじゃないか。どうでもいい人と体を重ねるいつもの。  田口と知り合ってから、そんなことはしていなかったのに。田口の顔がちらついた。佐々木とイチャイチャしている田口の顔が。 「可愛い、可愛すぎる」  大友のいやらしい囁きが、不快な気分にさせる。  ――こんなことは、やはり間違っている。否定しなくては。  そう思った瞬間。控え室の扉が豪快に開いた。 「こんなところにおられたか。大友さん」  ドス黒い重低音は澤井の声。大友は、驚いて保住の上から飛び上がった。 「うちの部下を可愛がってくれるのはありがたいが、会はお開きだ。タクシーを待たせておりますからどうぞお引き取りを」  澤井の眼光に、大友は首を引っ込めるしかない。このような場面を彼に見られるなんて、弱みを見せたくないはずだ。 「お疲れ様でした。大友教育長」  澤井の全く労いの気持ちもない棒読みの挨拶に、大友はいそいそと控え室を出ていく。 「またね。保住」  澤井の前を小さくなって通り過ぎて、階段を駆け下りていく大友は哀れに見えた。しかし、もっと自分の方が惨めである。服装を正す余裕もなく、躰を起こした保住を澤井は見下ろしていた。

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