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第9章ー第89話 罪悪感と許し
「おれは接待はしろと言ったが、売春婦みたいな真似までしろとは言っていないが」
「……そうでしたか。差し出た真似でしたね。失礼いたしました」
「大友はお前狙いだったが、本当に手を出してくるとはな。いいネタを作ってもらった。大友が教育長の間、梅沢は安泰だ」
――こんなことになっても自分の利益。澤井らしい。
保住は笑った。いや、笑おうとしたのだ。しかし、口元ががちがちで思うようにはいかない。俯いたまま、減らず口を叩いては見ても、声が震える。
「なかなか優秀な部下でしょう? 褒めていただきたいものですね」
流石に強気の保住も、今回の件はショックであったらしい。口では大きい事を言っていても手が震えた。はだけたワイシャツのボタンをつけようとしても手に力が入らないのだ。もどかしい気持ちでいっぱいになった。
――こんな醜態を晒すとは……。
目から涙がこぼれた。自分でも信じられない反応である。一人になりたいと思った。それなのに、澤井はその場から動こうとしない。むしろ、彼のそばに来て座り込んだ。
「気にかけていたつもりだったが——すまなかった。お前が会場からいなくなったことに気付くのに時間を要した」
「澤井さん……」
下から覗き込むように見上げてくる澤井の目は、保住を侮蔑するような色ではない。むしろ、心配気に、自分をまっすぐにみているのだった。彼はそっと手を伸ばしたかと思うと、ボタンを留め始める。保住は思わず側にいる澤井の腕を握った。躰が震えて止まらないのだ。
生まれて初めて、怖いという感覚を覚えた。キスされた時、「平気」「いつものこと」なんて自分に言い訳をしていたが、正直、こんなことは初めてだ。澤井は、大嫌いな人なのに、目の前にいる彼にすがるなど、バカげている――。
「お前でも、そんな弱いところを見せることもあるのだな」
「すみません、ただ。初めてで。初めて怖いと思いました。何故でしょうか」
「生娘でもないくせに」
「男性との経験はありません」
「そうか」
澤井は無表情だが、しっかりと保住の腕を握り返してくる。彼のその熱に、心が乱されて平常心が保てない。朝からの疲れと突然の出来事で頭の中が全く整理できなかったのだ。
「保住。おれは、お前に謝りたかった」
「え?」
「お前の父親が死んだのは、おれのせいだ」
目の前がチカチカした。大友に触れられた体の一部が、火傷をしたみたいにチリチリするのだ。そして澤井に握られた腕も。
「父は膵臓癌で」
「止めを刺したのはおれの人事だ」
「そんなことはありません。あの人の問題だ」
「いや。体が弱いのを知っていて国に出してやった。案の定、体調を崩した。おれのせいだ」
保住の父親はその能力を買われ、国への研修に出されたのだ。研修とは建前の言い方で、実情は出向みたいなものだ。国での勤務を終え帰ってきた彼は、すっかり体調を崩し戻ってきてから一年くらいで亡くなった。
澤井はそのことを言っているのだろう。
国への人事を決定したのは、当時、人事課長だった澤井だということは、保住も承知していることだ。
――彼はそれを気に病んでいるというのか?
「国への人事はいい話でした。それに耐えられない父が悪いのです」
本来なら責められるべき相手は自分なはずなのに、なぜ息子が否定するのかと、澤井は笑った。
「お前は強情だ! 父親そっくりだ」
「本当のことですよ。あの人は遅かれ早かれ死んでいた!」
「それでは謝れないではないか。おれの気持ちはどうなるのだ」
ふと声色を落とし、考え込むような澤井の仕草に、はったとした。
――この人は許しが欲しかったのか。
父親が死んでから、苦しんでいたのだろうか。
――知らなかった。
鬼みたいな形相で、のさばっているのではない。内心は保住の父親への罪悪感で満ち満ちていたのだろうか。
保住は、和室での邂逅を思い出していた。あの時、澤井は父親のことが「好き」だと、愛情があったと言っていた。
自分は、澤井が大嫌いだった。新卒時代、随分と嫌がらせをされた。係長とぶつかると、すぐに呼び出し。しまいには、彼に四六時中監視され、雑用を強要され、無理難題ばかり押し付けられた。手を上げられたことも多々ある。暴力で人を抑圧するのは好きではない。「こんな男に屈するものか」と意気込んでいたのを思い出したのだ。
しかし、今。目の前に跪く男は、その澤井ではない。罪悪感でいっぱいの、許しを得たいと訴えてくる瞳の色に心が大きく揺さぶられた。思考が思うように働いていないから、誤作動なのだ。――きっと。
自分にそう言い聞かせて、そっと澤井の土色の顔に指先で触れた。細いその指先は、冷えている。澤井の頬は熱かった。
「保住」
「父の代わりでもいいですよ」
「だから、おれは……お前には、」
「それでも、少しでも満たされますか」
「なに?」
「少しは解放されるのでしょうか?」
懺悔するような色からの戸惑い。しかし澤井のその瞳の色は、明らかに情欲に帯びている。男に犯されそうになった自分を、彼はどう見ているのだろうか。父親に対しても、情愛の念を抱いていたということなのだろうか。
ならば、一度だけでも。自分を父親の代わりに抱いたら、彼は救われるのだろうか?
「やってみなければ、わからんな」
澤井はそう囁くと保住の腰に手を回して引き寄せた。その腕は熱がこもり、保住の細い躰などへし折ることが容易にかないそうなくらい、力強かった。
「ここはもうお開きだ。場所を変えようか――保住」
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