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第10章ー第95話 あなたがいてくれたから

 心の中は嵐。嫌なことばかり駆け巡る。まさか、自分が保住と付き合えるなんて思ってもみない。男同士だからだ。天地がひっくり返っても無理。  わかっていた。だから我慢していたのに――。  同じ男である澤井が保住と寝たと聞いて、心穏やかにいられるはずはない。  ――男でもいいなら、なぜ自分ではないのだ?  誰にも負けないくらい、あの人が好きなのに。仕事も手につかないが、周囲は昨晩の疲れだろうと理由付けてくれた。定時になり片付けをして退勤する。  ――保住さんはいるだろうか?  メールをする勇気もない。事情もよくわからないのに、自宅に連れこんで休みまで取らせた。顔向けもできない。余計なお世話ばかりではないか。嫌な思いばかりさせているのではないだろうか。  だけど、心配で仕方がないのだ。寝ているだろうか。自宅に帰ってしまっている可能性も高い。  ――いて欲しいけど。だけど、いたらどうしよう? 夕飯をなにか考えないと。  行き着けないスーパーでウロウロしていると、レトルトの粥が目に入った。 「粥か」  二日酔いにはお茶漬け。体調が悪い時は粥に限る。レトルトに手をかけると、ふと下からの視線に気が付いた。はっとして見下ろすと、そこには小柄な老婆が立っていた。 「具合が悪い人でもいるのかい?」  彼女はカートの取手を握ったまま、田口の隣にいた。  ――びっくりした。  慌てて掴んでいた粥を落としそうになり、掴み直してから元に戻す。 「知り合いが……体調が悪くています。なにを食べさせようか悩んでいました」  素直に白状すると、老婆はニカッと笑った。 「体調が悪い時は、喉越しが良くて栄養価が高いものでないといけないよ。レトルトの粥もいいが、プラスアルファしなくっちゃ」 「はあ……」  それから数分。田口はおばあちゃんの知恵袋レクチャーを受けた。結果。とりあえず良さそうなものを買い込んでみたところ、スーパーの袋二つ分にもなった。  そもそもが料理をしていないから、一から揃えるとなると、このくらいになるのは当然だろう。自分でもいかに、料理をしていなかったか、明らかになってがっかりだ。そんな思いを胸に荷物を携えて自宅に帰った。  玄関を開けると中は真っ暗だ。  ――保住さんは帰ってしまったのだろうか?  そんな不安を覚えて、照明をつけると、彼の靴が揃えて置いてあった。まだいるらしい。寝室を覗くと、今朝、置いていったまま彼は眠っていた。  相当の疲れとダメージだったのだろうか。ベッド端に腰を下ろして、保住を見つめる。  やはり視線がいくのは、誰かの跡――いや、澤井の跡だ。朝同様にそっと触れたが、全く動じる様子もなく保住は眠り続けていた。  ――触れたい。  そんな思いが、一瞬で湧き起こる。身体の奥底で、疼く感覚。緊張しているみたいに、ドキドキが激しい。  ――局長が触れたなら、自分も触れたっていいのではないか。  首筋に触れたい。指ではなくて、唇で……。 「……やめよう」  ――やめだ。  自分らしくもない。それでは、大友や澤井と一緒だ。保住の気持ちも考えないで、ただ欲求を満たすことは許されない。自分は、そんなこと、あってはならないのだ。  拳を握りしめてから、寝室を後にした。動悸は治らない。違うことに取り組んで、気を紛らわせないと。そう思い、キッチンに買ってきたものを持ち込み料理を始めることにした。 「あの人と同じ方法ではダメだ」  自分は自分だ。保住と澤井が付き合うならまだしも、それはわからない。まだ希望はあるはずだ。そう自分に言い聞かせる。悶々としてしまうと、独り言が出てくるものだ。 「まだやれる!」  田口は自分に言い聞かせるように、ガッツポーズを作った。 「なにがだ」 「え?!」  驚いて顔を上げると、眠そうな顔の保住が、キッチンの入り口にもたれていた。 「いや、あの! ええ?! いつからいたんです?!」  独り言を聞かれるなんて、恥ずかしすぎる。田口は顔が真っ赤だ。しかし保住はしれっとした顔で、田口の手元を見る。 「焦げ臭いぞ」 「わわ! やばい! ……あーあ」  ――真っ黒。がっかりだ。 「なにを作るつもりだった?」 「粥です。保住さん、具合悪そうだし」 「粥は嫌いだ」 「え!」  まさかの選定ミス。田口はうなだれた。ワイシャツの袖をまくり、保住は田口の隣に来る。そして周囲の材料を見て頷いた。 「おれがやる」 「しかし」 「お前に任せていたら、いつまでも飯が食べられないだろうが」 「それは、そうなんですけど」  田口が横に退けると、保住は慣れた手つきで玉ねぎを細かく切り始める。 「保住さん、手際がいいですね」 「このくらいは、独身男子だって出来ないとだろう。女子に嫌われるぞ」 「見た目だけで嫌われてますよ」 「そんなことはないだろう? みのりはお前のことをいつも褒めている」  そこまで言ってから、保住は顔を上げた。 「みのりとどうか?」 「え?」 「あいつも独り身だ。わがままな奴だから、なかなか彼氏もできない。お前なら……」  そんな話は聞きたくない。保住の言葉を遮った。 「それよりも。聞きたいことがあります」  真剣な視線に、保住は手を緩めて視線を返す。 「昨晩のことか?」 「そうです」  隠しても仕方がないことだ。田口は素直に頷いて見せた。保住は手を止めることなく俯いていた。長身の田口から、彼の表情を(うかが)うことはできないのだ。もどかしい。 「お前に話さなくてはいけないことなのか」 「関係ないと言われたらそれまで、ですけど」  田口の答えに、保住は野菜を切る手を止めた。 「お前は寡黙で大人しい割に、お節介で、どうでもいい人間まで気にかけるな」 「どうでもいいだなんて」  呼吸を置いてから、保住を見る。 「あなたは自分を粗末に扱いすぎます。おれは心配です。仕事に対しての能力はずば抜けているのに、プライベートが酷すぎます」  言い返す事も出来ないのか。保住は黙り込んでいた。  「あなたは、おれの梅沢での生活にたくさん彩りをしてくれました。仕事でも、進むべき道筋を導いてくれた。初めて仕事でやる気が出ました。プライベートもそうです。こんなつまらない男なのにこうして時間を共有してくれる。正直、いつ雪割《ゆきわり》に帰ろうか悩んでいたのです。だけど、梅沢にきてよかったと思わせてくれた」  田口はじっと保住を見つめていた。その視線は、まっすぐだった。 「あなたは、おれにとったらどうでもいいとか、そういうものではないんだ」

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