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第14章ー第113話 渡辺、リタイアです。
――怠い。体が重い。
元々アクティブな質ではないおかげで、あの澤井のタフさには到底着いていけるはずもない。睡眠不足と疲労感は、保住に深いダメージを与えていた。澤井は、『ゆっくり休め』などと言っていたくせに、結局は保住の家に上がり込んで朝までいた始末。
東京出張をした。二人で一日過ごすというのは、保住にとって、苦痛以外のなにものでもない。澤井はかなりの上機嫌だった。
澤井と過ごした次の日は、身体の重さだけでなく心も重苦しい。だんだんと積み上がっていくこの気持ち――。
這い上がれない泥沼の中に囚われている感覚に陥っていた。
保住は、お茶のペットボトルだけを手に、昼休みはぶらりと一階に降りた。今日は特に気分が優れない。精神的に疲弊している躰は、食べ物を受け付けるのもやっとだ。
事務所にもいられなかった。田口に合わせる顔もないからだ。こんな晴れない気持ちになったことはない。自分の気持ちを持て余していた。
「保住?」
中庭に降りるとそこで、吉岡に出くわした。
――こんな時に。
吉岡は父親の腹心で澤井とは犬猿の仲だ。保住が澤井と懇意にしているのを「面白くない」と見ている人間の一人なのだ。
「どうしたの? 顔色が優れないな。忙しいとは聞いているが」
「お疲れ様です。大丈夫です」
「ちょうどよかった。話をしたかったところだ」
自分には用事はないのだが。強引な吉岡は、保住の腕を捕まえると脇のベンチに座らせた。
「澤井とはどうだい?」
「あの……」
澤井と近しいのを良しとしない人だ。唐突に切り出されてしまうと、珍しく動揺した。
「ここのところ、彼は随分と振興係に肩入れしていると聞く。なにか嫌な思いをしているのではないかと思ってね」
「い、いえ。業務です。特に問題はありません」
「しかし」
これ以上は聞かないで欲しい。次の言葉を探して視線を彷徨わせると、中庭の入口から見知った男が入ってくるのを確認した。
「係長!」
――田口……。
「こんな所にいたのですね。吉岡部長、お疲れ様です」
田口は礼儀正しく吉岡に頭を下げた。
「えっと、」
「保住係長の所にいます。田口です」
「田口くんね。初めまして」
「部長、すみません。お取り込み中のようですが、補佐が体調が悪いのです。係長をお借りしてもよろしいでしょうか?」
そう言われてみると、渡辺は今朝から、口数少なかったことを思い出す。保住は吉岡を見た。彼は名残惜しそうに肩を竦めた。
「なんだ、せっかく捕まえたのに。職員が体調悪いなら仕方ない」
吉岡は田口を見据えてから、微笑んだ。
「好青年だ。いい職員だね」
「ありがとうございます」
田口は礼儀正しく頭を下げた。
「吉岡部長、失礼いたします」
保住も頭を下げてから田口に続く。吉岡との話も気まずいが、田口との時間も気まずいのだ。二人は前後ろで黙々と歩いた。つい先日までは、こうして二人で歩く時間がとても幸せだったはずなのに――。
「渡辺さん、大丈夫なのか?」
田口は振り向くことなく返答する。
「風邪でしょうか? 熱があるようです。季節の変わり目ですからね。みんな風邪気味です」
「そうか」
保住は黙り込んで田口の後ろを歩いた。事務所に着くと、渡辺は赤い顔をしていた。
「係長、申し訳ありません。お昼休みだったのに……」
彼は申し訳なさそうに言うと、田口を見る。
「田口、悪いな。係長呼んできてくれて、ありがとう」
「いえ」
渡辺の緊急事態を知らせるために、田口はあちこち歩き回ったのだろう。
「すまなかった。昼休みだからといって、行き先を告げずに席を離れた」
保住はそれから、渡辺を見る。
「渡辺さん、早退してください。病院、大丈夫ですか?」
「しかし。午後から関係機関への挨拶回りがあるんです。田口一人にやらせるわけには……」
「おれで良ければ、一人でも大丈夫です」
田口は頷く。年度末のオペラ上演に向けて、関係機関への挨拶や、打ち合わせが立て込んでいる日だ。保住は渡辺の肩に触れ声色を和らげた。
「おれが田口のフォローをします。渡辺さんは帰りましょう。こじらせると悪い。むしろきちんと元気になって早く出てきてください」
保住の言葉に、渡辺は本当に申し訳なさそうにしているが、本当に具合が悪いらしい。顔色が蒼白で視線が定まらなかった。
「すみません、代われなくて」
谷口と矢部は顔を見合わせた。
「おれ達、県に呼ばれていて」
「致し方ない。今日は誰もが余裕のないスケジュールです」
保住は側のホワイトボードを見る。
「ともかく帰りましょうか。送りますか」
「そこまでは。帰りに病院に寄って帰ります。一人で大丈夫ですよ。すみませんでした」
渡辺は頭を下げると、荷物をまとめて事務所を出て行った。ふらふらと出て行く渡辺を見送ってから、他の三人は保住を見た。
「さて。ゆっくりはしていられないな」
***
田口は黙ってことの成り行きを見ていたが、ふと保住と視線が合った。疎遠になってからも、視線は合うのだが。感情がこもっていない。冷たい視線だった。これにぶち当たってしまうと、なんとかしたいという気持ちが萎えた。
「渡辺さんと回る予定になっていたな」
「はい、一緒に回る予定でした」
「予定表を見せろ」
「はい」
田口は午後のために準備していた書類の山からスケジュールを渡す。宿泊施設。音響会社。楽器店。印刷会社……。
昼食なんて悠長に食べている場合ではなかった。上着を羽織って立ち上がる保住に付き従う。
「田口、行くぞ。運転しろ」
「はい」
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