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第13章ー第112話 ちらつく影
結局、眠れなかった。昨日のオーケストラの件が心配になって、早めに出勤をしてみることにした。
――東京でなにをしてきたのだろう? 新しいオーケストラは見つかったのだろうか。
そんなことを考えて歩いていくと、保住の車が止まっているのが見えた。昨日は田口が帰宅する時にも置いてあった。今朝もあるということは、早く来ているのだろうか。夜はあんな気持ちになったが、朝になるとそれは冷めるものだ。
やはり昨日と同じ。なにもかわっていないのだ。自分の心持が少し変わっただけ。でもそれも夜が明けるとともに、冷めてくる。彼になにを話したらいいのか、どんな顔をしていたらいいのか、わからないのだ。
――いくじなしだ。こんなにも臆病になるだなんて……。
田口は、溜息を吐きながら事務所に入った。
「おはようございます……」
しかし保住はいなかった。
「――あれ?」
――車はあるのに、まだ来ていないのか? 車は置いていったということか。……澤井だ。また彼。
昨晩の野木の言葉が脳裏をかすめた。
『一度、関係を持ったら他人ではない』
その通りだ。きっとそうだ。澤井の保住を見る視線は変わった。優しいだけの視線ではない。熱を帯びた視線だ。あれは、ただの関係性だとは思えない。
そして保住も然りだ。今までのように、澤井を邪険にはしない。素直に応じている姿を見かける。
自分の気持ちを押し通したいと思っても――もし、本当に保住が澤井を好いていたら、ただの邪魔者扱いだし、保住を困らせることにしかならない。
確認したい。本気なのか、そうではないのか。
パソコンを開いて、田口は仕事を始めた。
***
結局、保住が出勤してきたのは一番最後だった。
――まただ。
彼は出張から帰ってきた翌日だというのに、身なりをきちんと整えていた。その様相は田口からしたら、違和感だらけだった。
「昨日はすみませんでした。まず報告があります」
保住は出勤早々に切り出した。
「昨日は、関口圭一郎先生にお会いしてきました」
関口圭一郎とは、世界的に有名な指揮者である。幼少時代に梅沢で過ごしたことがあり、縁がある人だ。彼には今回のオペラの音楽総監督をお願いしている。世界的にも人気が高く、なかなか捕まらない人だが、『梅沢』と言うキーワードだけで仕事を引き受けてくれた。その関口に会うために出張だったのかと、一同は理解した。
「マエストロにですか。よく捕まりましたね」
「たまたま東京に滞在しているとのことでした。今回のオーケストラの一件をご説明し、理解いただきました」
「よかった。マエストロにまで降りられたら困りますよね」
「そうですね。非常事態が起きた時こその対応は肝要です」
保住の言葉は最も。アクシデントを逆手に攻めに転じるのか。
「マエストロからは、自分が常任指揮者で所属しているオーケストラの出演をとりつけました」
「は?」
「え、ええ?!」
一同は目が点。ほかの部署の人たちは何事かと視線を寄越しだが、そんなことはお構いなしだ。渡辺は、呆れた顔をして笑った。
「御影 とは格が違いすぎやしませんか」
「仕方ありませんよ。先生と共に行動しているオケなら、練習の時間も軽減出来ますし」
「そうでしょうが。交通費等は?」
「たまたま来日中です。日本ツアーの真っ最中だからこそ、マエストロも引っ張ることが出来た。その日は団員はオフの予定だったそうです」
「無茶してくれますね。係長の案でしょう」
保住は苦笑いする。
「それしか方法がないかと思いましたが、マエストロのマネージャーの有田さんはもっと早く動いてくれていました。東京に行った時には、ほぼ話は決まっていました」
「じゃあ、行かなくてもよかったんですかね?」
渡辺の問いに、住は微笑を浮かべた。
「いえ。足を運んだからこそ上手くいくこともあるものです。今回は幸運でした。マエストロが在日していたのと、御影が降りてくれたタイミングが絶妙に噛み合っていました」
「では、一応落ち着いたということですね?」
「そうですね。みなさん、ご協力ありがとうございました」
保住は頭を下げた。一同も見習って下げる。
「では業務に入りましょう」
「はーい」
にこやかに仕事を始める職員たちと共に、田口も仕事に取り掛かる。しかし、頭の中は疑惑と焦りでいっぱいだった。正直、仕事とのことなど、どうでもいい――と思っていたのだった。
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