117 / 242
第14章ー第117話 貸しひとつ
――上手く行くとは思っていない。
決済の書類の精査をしていた。午後八時を過ぎた。
――店じまいか。
そう思っていると、保住が顔を出した。
「宜しいですか」
彼がしおらしいのは珍しい。澤井は苦笑して招き入れた。
「お前がそんな態度なのは、下心がある時か、悪い知らせだな」
「あの……」
少し視線を彷徨わせてから、保住は澤井に顔を向けた。
「やはり――あなたとの関係、終わりにしていただきたい」
「職場でがっつりプライベートな話をするものだな」
澤井は思わず笑みが溢れた。
「すみません」
「まあ、定時は過ぎたしな。許そう」
澤井はハンコを押す手を止めることなく続けた。
「田口と和解でもしたか」
「和解というか……」
「つまらんな。時間の問題とは思っていたが、こう早いとは。田口も我慢が足りないものだ」
「澤井さん……あなたは、知っていたのですか? 田口の気持ちも」
保住は怪訝そうに視線を寄越した。
――知っていたかだって? ああ、知っていた。なにせ、あいつは保住への気持ちが隠し切れていなかったからだ。馬鹿がつくほど正直や男が『田口』だろう?
澤井は実直な田口の顔を思い出し、口元を歪めた。
「あの男は真面目で一本通っている割に、相手のことを尊重し過ぎる。恋愛は相手のことばかり考えていたら、なにも進まないものだ。だから、おれが手伝ってやったのではないか」
「澤井さん、あなたは……」
保住はムッとした顔をする。弄ばれたと受け取ったのだろう。
「まあ、おれも楽しんだ。しかし、もう少し楽しませてもらえるのかと思っていたが……。予想外に田口は我慢が足りんな。大して面白くもなかった」
「あなたって人は、……呆れますね」
「しかしそれで仲直りしたのだろう? ああ、それ以上になれたか? 感謝してもらいたいものだな」
保住は澤井の側まで歩み寄ってきた。
「澤井さん。あなたは、どこまで本気なのです?」
「それを知ってどうするのだ? 本気なら、おれのものになるのか?」
「それは、できかねます」
「なら聞くな。なにも与えられない奴は、交渉の席にも着けなだろう?」
「それは、そうですが」
澤井はそっと保住の頬に手を当てた。
「おれはオペラが成功を確認して異動だ。お前と田口は、もう一年ここに残れ」
「なにを……」
「おれが副市長になったら、お前たち二人には手伝ってもらいたいことが控えている。せいぜい仲良くして、田口を側に置いておけ」
ふっと軽く笑い、澤井は手を引く。
「さっさと帰れ。おれも帰れないではないか」
「澤井さん。……わかりました」
話しは終わりだと態度に示すと、それを察したのか、保住は頭を下げて退室していった。
――珍しいことだ。あんな男でも、関係を持った相手に情を移すのだろうか?
澤井は仕事を止めて黙り込んだ。
――親子ともに思い通りにならないものだ。
父もまた澤井の思いとは裏腹に、別な人間の手を取った。
「息子もか」
最初からわかりきっていた事だが、その時が来ると、さすがの澤井も堪えるようだ。田口は焚きつけないと動かないタイプだ。あのままだったら、永久に黙って保住の脇にいるだけ。異動が彼らをわかつだけだ。保住は保住で、自分の気持ちを知る能力が低い。誰かの力がないと結果は同じ。何事もなく何年も過ぎるか。別れるかのどちらか。
「もどかしいだろう」
自分もまた同じ。黙って想いだけを育てて、周囲からはライバル扱いをされた。表立って彼と会話をする事すら許されなくなってしまったのだから。
『澤井はおれが嫌いかも知れないけど、おれはそうでもないんだがな』
会議の後。ふと言われた時の彼の横顔が忘れられない。ニコッと笑った顔は、澤井には刺激が強過ぎたのだ。
『保住。おれはこんな男だ。何処でどう間違ったのか。お前とは同じ立場で仕事をしたかった』
その時の言葉は本音。それを受けて、保住はさらに笑っていた。
『今からでも遅くないだろう? 周囲が作り上げた幻想だ。一緒にやろう。お前とおれが組んだら、梅沢はもっとよくなる』
『買い被り過ぎだ。お前の周りには吉岡や水野谷がいるだろう』
『そう言うなよ。あいつらはあいつらだ。澤井は決断力もあるし、長期的な見方に長けている。それに、誰よりも梅沢を愛しているじゃないか。色々教えてもらいたいことが、沢山ある』
『よく言うよ』
あんな他愛もない話だったのに。澤井にとったらあれが、最後の邂逅だった。国にやったのも、彼を支援しているつもりだったのに。
――死んでしまうなんて。
「馬鹿野郎」
澤井はそう呟く。病気が発覚してから、復帰や入院を繰り返していた保住の隣にはあいつがいた。
――取られた。
「あいつは、嫌いだ」
澤井は思い出しただけでイラついた。保住の事は好きだ。だがやはり父親とは違うと理解した。それでもなお、保住とは関係を持てたらよかったと思ったのだ。
「おれも人がいいものだな」
――やはり息子は息子。田口と上手くやれればいいのだろう。
惜しい気はするが、グダグダと誰かに縋ったり泣いたりするような情けない姿を見せるなんて、プライドが許さない。
――譲るのは今回だけだ。何度も何度も譲っていられるか。次にこんな機会があったら、力尽くでも従わせて自分のものにする。泣いて許しを乞うても、手放す気は無い。
澤井は電気を消して退勤した。
「貸しを作ったぞ。田口。何 れ何倍にもして返してもらおう」
澤井はハンコを引き出しにしまい込むと、立ち上がった。
ともだちにシェアしよう!