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第18章ー第145話 嘘

 その日の夕方、四時を回った頃、事務局長の佐久間が顔を出した。 「保住(ほう)ちゃん、ごめん。おれ、これから会議なんだけど、県から呼び出しきちゃってさ。こんな時間なんだけど行ってきてくれない?」 「はい」 「野原くんも出張でいないし。どうやら、記念館のことみたいだから」  野原とは佐久間の後任で異動してきた新しい課長のことだ。佐久間は本当に「悪いな」と何度も手を合わせる。 「承知しました」 「助かる! ありがとね。報告は明日でいいから。あ、それから直帰してもいいし」  保住はふと十文字を見る。 「いえ。記念館のことであれば十文字を連れて行くので、一度戻ります」 十文字はキョトンとしていたが、「はい!」と頷く。 「そう? まあいいけど。任せるよ」 「ありがとうございます」  佐久間は申し訳なさそうに頭を下げると姿を消した。それを見送ってから保住は十文字を見た。 「聞いた通りだ。残業になる。すまないな、十文字」 「いいえ。大丈夫です」  ――また二人で……。わかっているけど。  ヤキモキする気持ちが膨らんだ。仕事なんだから仕方ないじゃない。もう記念館の担当は自分ではないのだから。しかし依頼状の件は今日いっぱいと言われていた。  田口は保住に声をかけた。 「係長。依頼状のたたき台は……」  仕事に夢中になると周りが見えないのは仕方のないことだが、田口の気持ちなんて一つも理解していないのだろう。保住はあっさりと返す。 「明日でいい」 「はい」  ――今日中にって言ったじゃない。  ぼんやりしていて効率も上がらない中、なんとかしようと奮闘していたのに。 「大変ですね」 「お疲れ様です」  渡辺たちに見送られて姿を消す二人。田口はため息しか出ない。どうしたらいいのか、見当もつかないのだった。 ***  結局、しばらく残業していたが保住たちは帰ってこなかった。渡辺や谷口に誘われて、まだ仕事をしたかったが退勤した。二人も心配してくれているようだ。飲みにでも――と言われたが、とてもそんな気持ちにもなれない。体調が優れないとお断りをしてから自宅に帰った。  だんだん忙しく、なかなか保住との時間も取れない。土日も仕事で、悶々とした日々が続いていた。効率も悪いし、いつもの自分らしさもないし。踏んだり蹴ったりだった。  保住との付き合い方がわからない。  ――どうしたらいいのだろうか。  彼がなにを考えているのかわからないのだ。  お付き合いをするなんて、本当に久しぶりだし、そう経験豊富なわけではない。それに輪をかけて相手は生まれて初めての男性だ。そして上司――。正直、嬉しい気持ちだけではやっていけないと言うことを痛感していた。    翌朝出勤すると十文字が先に来ていた。 「おはようございます」 「おはよう。早いね」 「昨日、帰るの遅くなっちゃって……仕事が中途半端だったなと思って、早く来ました」  ――遅い? 「そんなに遅くなったの?」  動悸がした。 「県の話は大した内容じゃなかったです。記念館でやってもらいたい企画があるみたいなことでした。係長は。随分と渋っていましたけど。記念館にも悪い話ではないから、結局受けることになって」 「そうか」 「で、帰りに係長が夕飯おごってくれたんです。それで」 「そ、そう……」  十文字は笑う。 「係長って、お酒入るとツンツンした感じじゃなくなるんですね。ふにゃって感じで可愛かったです。あ! 仲良しの田口さんに、こんなこと言ったらいけないですよね。すみません。朝から」 「いや。別に」  ――気にしているくせに。気にしているくせに! 「おはよう」  渡辺が顔を出す。 「早いな。昨日は遅くまでお疲れ様」 「あ! 渡辺さん! おはようございます」  十文字は、なにやら答えているが田口の耳には入ってこない。そのうちに、谷口も出勤してきた。いつもは早い保住が遅い。彼は、八時半ギリギリになって顔を出した。  寝癖。  疲れた顔。  寝不足の時の彼だ。 「おはようございます。寝坊するなんて……」 「珍しい。昨日は飲みにでも行ったんですか?」  渡辺の問いに保住は首を横に振る。 「いや。夜遅くまで考え事をしていただけです」  ――隠すのか? 十文字と飲みに行ったことを。  田口はますます気が気ではない。心がざわついて不安で支配された。保住は席について落ち着くと、田口を見た。 「田口、すまなかったな。昨日の書類は……」  保住が手を出すと、そこに数枚の依頼状を渡す。 「これです。見てくださいっ!」 「あ、はい」  ギラギラしている田口の視線に、流石に保住も身を引いたようだ。 「おれ今日は一日、星音堂(せいおんどう)の保守点検に立ち会いです! 夕方に戻りますから添削お願いいたします!」  ダンっと机を両手で叩いて、彼は事務室を出て行った。

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