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第19章ー第165話 若かりし頃の思い出
結局、翌日は三人で出勤だ。十文字は、こんなことになるなんて思わなかった。
朝一番で保住に連れられて、佐久間のところにプレゼンに向かう。しどろもどろだが、なんとか説明を終えて、佐久間からは、二、三改善点を出されたくらいで企画は通った。じんわりと嬉しい気持ちが染み渡る。
企画書をじっと握りしめながら廊下を歩いた。
「よく頑張ったな。辛い思いをしたが、それもまた一つだ。十文字。お疲れ様」
保住に肩を叩かれて、余計に心がドキドキした。彼の笑顔は確かに刺激的だ。田口がメロメロなのも頷けた。いつも厳しいし、きつい言葉ばかり投げかけられるけど、にっこりと笑顔の彼は格別——。
これがやめられないのだろうなと思った。
今朝もそうだ。保住が朝食を作っていた。
——意外。
だけど会議資料に目を通しながら身支度をしている保住は上の空で、それを追いかけて寝ぐせを治してあげたり、ネクタイを締めなおしたりしている田口を見ていると笑ってしまう。それに、保住が一方的に優勢かと言えばそれはそれで違うようだ。田口になにかを言われて口ごもったり、都合が悪いからと怒り出す保住もいる。
——ちょうどいい関係性なのだろうな。
十文字はそう感じた。
そして昼休み——。十文字はメールを一つ送った。返答は午後に返ってきた。
『いいよ。今日七時にね』
相手の回答に心臓が跳ね上がる。
——そう。決めるのだ。色々なこと。はっきりとさせたい。
——ここにいるには、いつまでもそんな中途半端ではいけない。
そう思ってしまう。自分の人生にけじめをつけたいのだった。
しかし、約束の時間が近づくにつれて、動悸が激しくなった。
「バカみたい」
大したことじゃないのに。「好きだった」と伝えて、「ごめんなさい」という言葉をもらうだけだ。
自分は笑って、「そうだよね。ごめんね。困らせて」と言うだけなのに。そんなことが怖くてできなかった。
——そう、ずっとだ。十八歳の頃から……。
市役所に入って、無難にこなしてきたはずなのに。教育委員会文化課振興係に配属されてから、自分らしさが保てない。めんどくさいことから逃げて、無難な人生を送ってきたはずだったのに。この部署は残酷だ。否応なしに自分の嫌なところと向き合わされて、そして逃げられない。
辛い、辛い日々だったが、でも、ここまで持ってこられた自信がある。今の自分ならきっと出来る。
市民課で戸籍を出していた自分とは違うのだ。上司に何度もダメ出しをされて、苦しい中で先輩に支えられて企画書が通ったのだ。
「やれる。きっと。やる」
十文字はそんな気持ちに押されて、駅前を抜け目的地の喫茶店の扉を押した。
***
「なんだ。また来たのか」
カランカランと鳴る鐘の音を聞きながら、扉を押し開けると、この店の主人 である石田が呆れた表情をした。
「あの後、大丈夫だったのか? 田口さん。お前をおんぶしていっちゃうから。びっくりした」
「ごめん。石田にも迷惑かけたな」
「そんなことはない。本当はおれが預かればよかったんだけど。逆にあの人に迷惑をかけてしまった。すまないな」
「それはおれの台詞だろう? まったく嫌になるよな」
十文字はカウンターの隅に座った。
「今日はなんだよ」
「えっと。待ち合わせ」
「誰と」
彼は小さく頷く。
「拓 」
石田はそれを聞いて目を瞬かせた。
「え……、拓 ?」
「うん。葱 高校の。……いたじゃん」
「いや、知ってるけど」
「この前、偶然会ってさ」
「そうか。で?」
「で、って……」
十文字は顔色が悪い。
――緊張しているのだな。
「しっかりな。邪魔しないようにしてやるから」
「ごめん。意気地なしだからさ。どうしても石田の店にしちゃって」
「別にいい」
「知っている人が側にいると思うと、少しは頑張れるかな……?」
「お前は頑張っているだろう? 仕事にだって食らいついていたじゃないか。――悪いけどあんな必死なお前見たことないぞ。森合 も言っていたが、お前が真剣に向き合っているのすごいって。あいつ梅沢に帰ってきたら、早くお前に会って話したいって言っていた」
「そうだった」
十文字は力なく笑う。
「森合と話して思いついた企画が通ったんだ。報告してお礼しないと」
「祝ってやるから」
「うん。森合帰ってきたら教えてよ」
「そうだな」
そんな会話をしていると、扉が開いて男が顔を出す。彼はきょろきょろとしていたが、十文字を見つけると笑顔を見せて寄ってきた。
「ごめん。遅くなって。場所がわかりにくくて」
彼は十文字の隣に座った。それから石田を見上げた。
「あれ? 確か。小針 の……」
「あいつの話はなしにしてもらおうか」
「ごめん」
「石田だ。久しぶりだな。佐野拓」
「おれの名前覚えていてくれたんだ」
高校時代の面影がある。 線の細い柔らかい笑顔。石田は当時のことに思いを馳せる。
――十文字は彼が好きだった。
高校生にとって、電車で一時間も離れている距離は遠い。それでも、彼は拓が好きだった。携帯で連絡を取ったり、なにかあれば会いに行ったりしていたものだ。
しかし最後の最後まで自分の気持ちは伝えていないようだ。だから、こうして前に進めていないのだろうということは、友人の石田でもわかっていた。
コーヒーを煎れながら、石田は二人の様子をこっそり見た。当たり障りのない話からと、いうことだろう。拓はにこにこっとしてなにかを話している。十文字の緊張なんて、彼には認識することすらできないのではないだろうか――?
そう思いながら。
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