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第26章ー第232話 約束
「保住さん!?」
いつもだったら自分のほうが優位なのに――と田口は不本意だった。保住に引きずられて、田口はソファに組み敷かれる。いつもとは反対の構図。田口の上に跨った保住は勝ち誇ったような顔だ。
「いつもお前の好きにはさせないからな」
「ちょ、ちょっと。反対はちょっと……」
「そうか? いい眺めだ。おろおろとしたお前は」
「な、なんか。澤井化してます!」
「それを言うなと言っているだろう?」
保住は意地悪な笑みを浮かべると田口に口づけた。
「は、ちょっ……っ」
慌てている田口だが保住はやめない。田口のシャツのボタンを外し指を這わせてきた。自分が主導権を握ってやるとばかりに嬉しそうな保住だが……。ふと動きを止めた。
「……」
「保住さん?」
彼の瞳には迷いの色が浮かんでいることを田口は見逃さない。保住の腕を引いて、あっという間に形成を逆転させた。今度は田口が保住を見下ろす番だ。彼は本気で怒っているが気にしない。
「ちっ! しまった!!」
「隙だらけですよ。保住さん」
田口は笑う。
「やり方に迷いましたね?」
「ち、違……ッ、だって、お前、胸ないし」
「すみませんね。平べったくて」
これではいつものパターン。結局は田口が主導権を握るだけ。いつもどんな場面でも田口より優位に立つ保住だから、悔しくて仕方がないという顔だ。
「お前っ! 仕事も早退して休んだくせに、」
「関係ないじゃないですか。それに早退するように言ったのはあなたですよ? サボっているわけではありません」
「生意気、言うな」
「生意気ではありません。事実です。それに今はその話じゃない」
田口は保住の耳元に唇を寄せて、っと声を潜める。その仕草だけで彼の頬は上気している様が見て取れた。口では拒否的なくせに嫌いじゃないのは知っている。
「保住さん、こうするんですよ」
ネクタイを緩めて開かれている首筋に唇を寄せると、保住が声を上げた。
「……ッ、田口ッ」
「おれを興奮させるようなことするからです」
「したつもりは……」
「あなたから誘ってくるなんて。ルール違反です」
「なんだ、それは……っ」
怒っていても無駄。始まったものを途中でやめられるほどの理性は持ち合わせてはいない。軽く押し返す小さな抵抗が、田口の思いに火をつけていることを保住は知らない。お互いが触れる場所から伝わる熱さが、更に体中を火照らせた。
「迷わないで。おれのことだけまっすぐに見てください。保住さん」
自分を見て欲しい。
自分だけの人になって欲しい。
心の中は、彼を支配したいという気持ちで溢れている。
これは、独占欲――だ。
彼の全てが自分のものになるならば、自分は全てを差し出す。
田口の心はそんな声をあげていた。
「田口、おれは」
「おれはあなただけいればいい。あなたのためだったら、どうなっても構わないのです」
舌を絡めとり唇を重ねて、そして保住の中に入り込む。
「好きなんです。あなたが」
息が上がって現実と夢の境が不明瞭になっていくのは、お互いにいつものこと。だけど確実に視線を合わせ、繋がりあっている感覚は現実だと認識出来る。田口のことでいっぱい。保住のことでいっぱい。それだけで心が満たされる。求められていることが感じられるだけで、それだけで満たされるのだ。
「田口……」
自分の首に回る腕の感触。耳にかかる吐息。自分の名を呼ぶ唇。
――みんな好き。大好き。
今日のことなんか遥か遠くの出来事みたいに色褪せていくのに、彼との時間だけは田口に彩りを添えてくれていた。
***
ついうとうとしていたらしい。一瞬のことだったのだろうか。 身体に衝撃を受けてはったと目を開けると、ソファの上から保住が気の毒そうに顔を出していた。
「大丈夫か?」
「あの」
落ちたらしい。そっと伸びてきた細い指が、田口の頬をなぞる。そして「ぷ」っと笑い出した。
「な、笑わないでください」
「だって。お前。情けない格好だな……」
「保住さんが追い出すからでしょう?」
「追い出したりしていない。お前が勝手に落下しただけだろう?」
「保住さんって本当に性格悪いです。いつも人のせいじゃないですか」
「んなことあるか」
そんなどうでもいいことを言い合える時間が、田口にとったら至福の時だ。母親との会話を思い出す。いつか「この人が自分の大切な人なんだ」と言える日が来るのだろうか? もしそれを知ったら家族はどんな反応を示すのだろうか?
体を起こしてから、そっと腕を伸ばして保住を抱き寄せた。
「そばにいろ」
ふと聞こえてくる言葉は、いつも素直じゃない彼の本心。田口は目を閉じる。
「承知しました」
「約束だそ」
「約束します」
たったそれだけの事。だけど、決して違えることのない約束なのだ。
***
翌日、出勤すると案の定。三人が手ぐすねを引いて待っていた。
「見合い、どうした?」
「ふられたか?」
「まさかの二股?!」
正直に言ったら面倒であるが、この三人を黙らせるには、素直に答えたほうがいいと思ったので、正直に結果を述べた。
「彼女は別な男と駆け落ちしました。以上、ご報告です!」
三人はぽかんと口を開けたまま田口を見ている。流石になんと声をかけたらいいのかわからないらしい。黙っている三人の顔がおかしい。田口は笑い出した。
「おいおい、笑うところ?」
渡辺のツッコミに保住も笑う。
「本当。田口らしい」
「はい! おれらしい結末です!」
振興係の面々は釣られて笑う。
――いいじゃない。こんなことがあったって。
笑ってこのメンバーでいられるのも僅か。異動の内示が迫ってくる。保住と離れてしまう不安はあるけれど。今は笑っておこう!
田口はそう心に決めた。
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