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第7話 口付け*
「あちっ!」
フライパンの縁 に触れた指先を引っ込めてから、すぐに水道の水で冷やす。そんなことをしているうちに、焦げ臭い匂いが漂ってきて、慌ててガスコンロのボタンを押すが、すでに遅し。フライパンの中身は、真っ黒に仕上がっていた。
「あちゃ……またかよ」
ガックリと項垂れていると、玄関から音がした。
この残骸を隠さなくては……と思っていても、もう遅い。キッチンに顔を出した野原は、無表情で槇を眺めていた。
「焦げ臭い」
「な、気のせいだろう?」
「気のせいじゃないと思う」
彼はそう述べてから、じっと槇の手元を見つめていた。
「失敗じゃないからな。これはおれの創作アレンジで……新作だぞ!」
リアクションのない野原は、しばらくじっと槇を見つめたままだったが、ネクタイを緩めるのをやめて呟く。
「外に食べに行く」
「……だな。夕飯にはありつけないみたいだ」
槇も諦めてフライパンを流しに突っ込み、エプロンを外した。
――あれからもう何年たつのだろう?
生まれた時から一緒。槇は今年で35歳になる。つまり、二人は、35年間もこうして一緒にいることになるのだ。
いやずっと一緒ではない。ある出来事が起こるまでは、少々距離が離れていた時期もあったのだが……。
「お菓子でもいいけど」
そう呟く野原に槇は首を横に振った。
「おれはいやだ」
「あ、そう」
今さっき帰ってきたばかりの野原を連れて、槇は玄関の鍵を施錠した。
「遅かったじゃないか」
「新しい部署の仕事を早く覚えたい」
「文化課だろう? 大した仕事じゃないだろうに」
「そうでもない。結構忙しい」
「ふうん」
エレベーターに乗り込むと、ふと野原が槇を見た。
「私設秘書なのに市役所のことよくわかってない」
「べ、別にいいの。おれは市長の政治家の顔を支える役目だから。公務は秘書課の奴らがやっているだろう? おれには関係ないの。おれはね、無駄なことはしないの。面倒くさいじゃん」
槇の返答に、野原はやや呆れ気味のため息を吐く。
「なんだよ。雪 」
「別に。実篤らしいって思っただけ」
「おれらしいって、なんだよ?」
槇は野原に問うが、彼が返答することはない。彼はぼんやりとしている様子だった。きっと意識が仕事に向いているのだろう。槇は、なんだか面白くない気持ちになった。
――二人でいるときくらい、おれのことだけでいっぱいにしたい。
後ろから腕をそっと回して、野原の腰を引き寄せた。
「実篤」
不満気な声色をあげる野原だが、槇はお構いなしだ。
――だって、雪は、昔からおれのもの。
背後から抱き寄せたまま、彼の耳元に唇を寄せる。槇の吐息のせいなのか。いつも白い耳も、少し朱色に染まっていた。
「いじめてほしいって言ってるみたいだ」
「……意味がわからない」
「お前は自分の気持ちがわからないって言うけど、おれにはわかるよ。こうしていたいくせに」
槇がそっと耳朶を噛むと、野原の躰が強張る様が手にとるようにわかる。
「夕飯、やめるか」
「……でも」
槇は野原の耳に唇を寄せたまま、その腕を伸ばし、そのまま十二階のボタンを押す。
「我慢できない」
囁きながら、更に引き寄せて耳孔に舌を差し入れる。冷えている野原の耳は舌触りがいい。彼の耳の形に沿わせて舌を這わせると、野原は槇の腕をギュッと握った。
「――っ、」
「雪は耳が好きだよね」
わざと音を立てて、そこをネチネチと舐め上げてやる。槇の腕にしがみつく野原の手の力がこめられるのを感じるだけで興奮した。
「こんなところで。――部屋に戻るんだから、待って」
「待てないからしてんじゃん」
後ろから抱えるような姿勢のおかげで、野原の顔は見えないが、目元が赤くなっているのはよくわかる。そもそもが白い肌だ。少しの刺激で、それは容易に薔薇色に変わるのだ。
「早く戻ろう」
一度、地下駐車場に着いたエレベーターは誰も迎え入れることなく、折り返して上昇する。一つ一つ順番に点灯していくボタンを見つめてながら、だれかが乗ってくるのではないかと思うと余計に気分が高まった。
まるで時限爆弾が、時を刻むかのように動悸が激しくなった。
「……っ」
それでも野原を味わうことはやめたくない。執拗に左の耳を嬲る。耳の輪郭を舐め上げ、甘噛みした。
「実篤……ッ」
きっと泣きそうな顔になっているに違いない。振り向かせて口付けを交わしたいが、十二階に到着を告げるチャイムが鳴った。
「お遊びは終わりだな」
腰に回した腕で半分抱え上げるように野原を連れ出し、自宅の扉のロックを解除した。
乱暴に押し込めるようになだれ込んだ玄関先で、壁に押しつけて唇を重ねた。耳を弄んだだけで上気した目元が仄かに赤らんでいるのがいい。
ざらついた野原の舌の感触を確かめるかのように、執拗に絡ませて舐め回す。大きく開かれた、野原の口元からは唾液が溢れ出した。
「……んっ、は……んっ」
鼻から抜けるような吐息は槇を興奮させるだけだ。
力なく握られるスーツの上からの感触を感じながら、息継ぎなどさせないかの如く口内を犯した。
――ほら、夕飯よりいいくせに。おれはおまえを食べてしまいたい。
ドンドンと肩を叩かれたので、仕方なしに唇を離すと、野原は大きく肩で息を継ぎ、抗議混じりの声色で「……殺す気?」と言った。
「はは、それはいいかも。雪を殺して刑務所入るのも悪くない」
少し下から寄越させる視線は不満そうだ。朱色に光る唇が槇の情欲を刺激した。
――その口で咥え込んで欲しい。
「そう怒るな。冗談だろ?」
「実篤の言うことは冗談に聞こえないから」
「そう? 雪はおれに黙って命預けられる?」
そんなことは、常識的にノーに決まっている。いくら好きだからって命まで人に預けるだなんて、かなり常軌を逸している。しかし決まって野原は、平然と答えるのだ。
「愚問――」
差し伸べられた腕に誘われるように彼を掻き抱く。
野原の匂いがする。
野原の熱を感じる。
槇の頬に添えられた手を握り締めながら再び深い口付けを交した。
「雪。口でして――」
槇は待ちきれずに自分のベルトに手をかける。しかしそれを野原の手が止めた。彼は槇の前に膝付き、そっとその細い指でベルトを外してから、衣類の間に顔を埋めた。
野原のその指が根元を握り込み、その先端を唇の間に滑り込ませる光景を見ているだけで気持ちは昂った。上から見下ろすと、野原のまつ毛が震えている様が艶かしい。
まるで煽られているみたいで、野原の中に放ちたいという欲望だけが脳内を支配していた。
「雪、いい――。夕飯なんかより、お前を味わいたい」
毎日、何度もこうして躰を繋げてきたのに、それは底を尽きることはない。むしろ、繋がれば繋がるほど、もっと、もっとと溢れてくる。野原雪という男はまるで媚薬みたいだ。
出てしまいそうな寸前で、野原の額を押しやり、口を離させる。
「実篤――?」
「だめだ。口じゃない。入れさせろ」
槇は野原の腰を引いて床に押し倒す。玄関先の廊下は硬い材質だが、そんなことはお構いなしだ。我慢できないのだ。
「今朝もした」
「いいだろ? 一日に何度でもしたい」
「実篤――」
彼の膝裏に腕を滑り込ませて、浮ついた腰を強引に引き寄せてから、自分の昂った熱を捻り込んだ。
擦れ合う粘膜の刺激に、頭の先までなにかに貫かれたかの如く、快楽が広がる。
「や、やばい。出る――」
「出せばいい」
野原は槇の頬を、その細い指で撫でた。
「雪」
彼の名を呼ぶたびに、キツくなるのは、野原が喜んでいる証拠だ。いつもは無感情で、なにも考えていないように見えても、繋がっている間だけはわかる。野原は、自分とのセックスが好きだ。
槇には野原しかいない。
野原には槇しかいない。
そう槇は固く信じていた。
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