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第16話 涙

 喧嘩なんてしたことない。人を傷つけたくないなんていうのは都合のいい言い訳だ。本当は自分が怖いから。臆病だからだ。  だけど野原を独占したい思いは、我を失わせるくらい強烈な思いだったのかもしれない。  横沢の腕に掴みかかって、野原から引き離す。弾かれたように飛ばされた野原にかまっている暇はなかった。    すぐに横沢が槇の肩をつかんで引き寄せ、そして、拳で槇の頬を殴ったからだ。  体格でも経験でも、横沢に勝てるはずはない。槇はあっという間に吹き飛ばされて、そばの机と椅子に体を投げ出された。  床に転がった野原のところに駆け寄った蛭田(ひるた)は、「横沢!」と彼を制止するかの如く叫び声をあげたが、そんなもので止まるなら、最初から喧嘩などにはならない。口元を拭って顔を上げると、横沢が掴みかかってきた。 「お前のことは嫌いじゃねーよ。そのずるいところも、全てひっくるめてお前だって思っていたからな。だけど、あんまり卑怯だからよ。お前が一番、(せつ)のこと傷つけているのわかんないのかよ?」  横沢の言葉はその通りなのだ。  ――そうだ。おれは、味方をしている顔をして、避けてきた。全てあいつのせいにして。一番卑怯なのはおれだ……。だけど。  だからと言って、横沢にみすみす渡すわけにはいかない。 「知っている」 「じゃあ、なんで」 「横沢! おれと雪との関係は、お前にはわかんないだろう。だけど、おれはお前に雪を渡すわけにはいかない」  槇は躰を起こしてから、横沢に果敢に挑む。どうせだめだということは理解している。だけど譲れないことってあるのだ。  今まで逃げてきた自分の不甲斐のなさを償うかの如く、槇は何度叩きのめされても横沢に向かっていった。 「実篤!」  雪の声が空っぽな教室に響く。  もう何度目だろうか? 思い切り吹き飛ばされて、そばの机や椅子に背中が衝突した。  その衝撃よりもなにより、槇は雪の声に衝撃を受けた。彼の大きな声は聞いたことがなかったからだ。  視線を向けると、深緑の瞳は涙がこぼれそうなくらい潤んでいた。 「生徒会長にお前の今までの悪事を全てぶちまけてやんぞ。そしたら、お前、生徒会になんかいれねーよな? いいザマだぜ。おれたちを裏切るからだぞ」 「裏切ってなんかいない。……おれはただ。こいつを傷つけられることだけが、耐えられないだけだ」  槇の言葉に腹が立つのだろう。横沢は槇を引きずり倒すと、彼の上に馬乗りになって、拳を振り上げた。  喧嘩というよりは、槇が一方的にやられている構図に、蛭田も野原もどうしたらいいのかわからない様子で固まっていた。  間に入る隙もないくらい、二人のプライドがぶつかっていたのかもしれない。 「実篤……ッ」  野原の力ない声が耳に届いた瞬間。 「なにをしているんだ!」  教室によく通る声が響いた。一同は声の主を見つめる。入り口に立っている男は梅沢中学の現生徒会長の真島だった。 「一体なんの騒ぎ? 校内での暴力行為は見過ごすわけにはいかないね」 「会長! 槇実篤って男は、どうしようもないクズですよ? そんなの生徒会に入れて、いいんですか? こいつ。おれたちと一緒に、今まで――」  ――終わった……。今までの苦労は水の泡か。でもいっか。雪が無事なら。  槇は大きく肩で息をする。もうあちこち痛むし、血の味もするし、自分は死ぬのか? なんて思ってしまう。  だけどふと頬に冷たい感触が触れた。腫れ上がって、うまく開かない(まぶた)を持ち上げてみると、そこには野原がいた。  彼は今まで見たことがないくらい、不安そうで、心配そうな瞳で槇を見ている。  ――ああ、嘘だろう? お前、泣くの?  涙がこぼれそうな瞳を見て、なんだか人事みたいに笑ってしまった。血で濡れている親指で、それを拭った。  自分の悪事は暴かれた。生徒会になんて金輪際、関わることもできないだろうけど、それでもいいのだ。  生徒会に入るのが目的ではない。野原雪との時間を取り戻せればいいだけの話だから。  自力では起きることもままならない体を、床に預けていると、生徒会長の声が響いた。 「槇のことは全て承知の上だ。それよりも、今回の件。槇は手を出していないみたいだし。これは正当防衛として報告させてもらいます。君たちみんな、後日、処分を言い渡します。それまでは謹慎処分です」  真島の言葉に、そこにいた四人は黙り込んでしまっていた。  ――手を出していないのではなくて、出せなかったんだ。  心の中で真島の言葉にツッコミを入れてから、自嘲気味に口元を緩めた。

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