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第18話 対話

 横沢にやられた傷は相当だったらしい。壁に寄りかかって、立っているのもやっとである槇を抱えて歩いてくれたのは野原だった。  軽く積もっている雪を踏みしめながら、野原は自分よりも大きい槇を懸命に支えてくれた。  それが申し訳ないはずなのに、どこか嬉しいのは気のせいではない。 「お前さ。あいつらにいつからやられてたの?」 「いつから……。小学校の時から」 「そんなに? ごめん、気がついたのは中学になってからだった」  友達だった二人が、野原をいじめていたことに最近まで気がつかっただなんて。どれだけ彼から目を背けてきたのかと思うと情けなく思えたのだ。  結局は自分中心な男だ。 「別に。実篤が謝ることじゃない。実篤がやったわけじゃない」 「だけどあれは完全なるいじめだろ。それにおれは知っていて傍観していた。本当にごめん。横沢が言うように偽善だ」  しかし野原は気に求めない様子で、むしろ「いじめ?」とその単語を繰り返していた。槇は彼に後ろめたい気持ちがあったというのに。  興味を持つ場所がずれているというのか?  槇は罪悪感など薄れた。 「お前さ。本たくさん読んでんだろ? わかんない訳?」 「本? 確かに。いじめのこと、本で読んだ」 「お前ホント頭いいの? 本は本じゃねーし。いい? 現実とリンクしてんの!」  野原は目を見開いてから頷いた。 「小学校の時は廊下で会うと突き飛ばされたり、意地悪なこと言われたりした。でもそのうちに物を取られたり、壊されたりした」 「いじめって段々エスカレートするんだよ。今日なんて制服脱がされそうだったじゃん」  それだけじゃない。  横沢は、あの時、なにをしようとしていたのだ――? 顔を近づけて……。  ――あれはキスをしようとしていたのではないか?  あれだけは許されない。野原がそんな目に遭うなんて許されないと思ったからだ。  しかし彼の返答は意外なものだった。 「脱いだところで、なにがあるの?」  あまりの返答に槇は一瞬言葉を失ったが、気を取り直して反論した。 「あのさ、恥ずかしい気持ちにさせたいんだろ?」  槇は呆れるが、野原はきょとんとしていた。 「服脱ぐと恥ずかしい?」 「お、お前さ。じゃあクラスの前で全裸になれるわけ?」 「それは普通はしない」 「だから。だからだろ? 普通はしない、けど……」 「普通はしない」だから「やらない」。それが野原の持論。  槇の持論は「人前で裸になるのは#恥ずかしい」から「やらない」だ。 「違うのか……」 「なに?」 「そうか、そうなんだ。なるほどな。お前の思考回路とおれの思考回路は違うらしい。よく話してみれば理解できる」 「?」  野原の考えている世界は一般的な世界とは少しかけ離れているらしい。13歳の槇でもそれは理解できた。  ――なるほど。  この時、槇は野原とは対話が必要だと思った。彼を理解することが重要であると思ったのだ。  だがそれは、思った以上に容易いことだということも理解できた。こうして時間をかけて野原と話せばいいからだ。 「じゃあ、おれが学校辞めればいじめは終わる?」 「バカ! 意味ねーし! お前は嫌なことあったら逃げるのか? 逃げて解決することなんてないんだからな。また同じようなことされたら逃げるだけだろう?」 「逃げる? 辞める事は逃げる事?」 「そういう事。いいか。また同じことが起こった時どうするのか。考えるんだ。それが生きていくって事だろう? 逃げてばっかいたら居場所なんてなくなるんだ。世界中のどこにもいる場所がなくなるんだぞ」  それって自分に向けられている言葉みたい。現実を見て自分に後悔のないように生きないと。  権力が欲しいのは自分自身を肯定するするためだ。人に卑下されて、バカにされて、価値なんてないって思い込まされていた子供の頃の気持ちをなんとかしたくて権力にしがみついた。  ――おれだってできる。おれはおれ。  どうせバカかもしれないけど、自分に嘘は吐きたくない。  今の気持ちは、この目の前にいる野原を守ってやりたいという気持ちしかなかった。  あの時はあまり深く感じていなかったのかもしれないが、大人になってから思う事。 「なぜ権力が欲しいのか?」  その答えは「野原を守る力が欲しいから」だ。 「世界中のどこにも居場所がなくなる……」 「そうだよ」 「居場所なんて元々ない」 「そんな事言うなよ」  槇は野原の頭を撫でた。 「だからおれが一緒にいてやるっつってんの!」  槇の言葉に野原は黙っていた。 「聞いてんの?」 「実篤って昔からうるさい」 「ば、馬鹿野郎!」 「ほら、うるさい」 「お前ねぇ……」 「あら! 実篤! どうしたの!? その顔!」  いつのまにか自宅の近くまで帰ってきていたらしい。玄関先で立ち話をしていた槇の母親と野原の母親。二人は慌てて駆け寄って来た。 「また! 中学に入ったんだから少しは大人しくなると思ったのに!」  槇の母親はそんな言葉を口にするけど、顔は心配そう。野原は彼女の表情を見て「ああ、これが心配」と呟いた。  そして自分の母親も。 「(せつ)は? 怪我ないの?」 「実篤がおれを助けてくれた」 「助けたって?」  槇の母親は疑いの眼差し。 「別にいいだろ!」  槇は悪態を吐くが、野原はことの顛末を二人に説明した。 「教科書、バラバラにされてたら、実篤が止めてくれて。殴られた」 「あんたは!」  母親は槇の頭をグーで叩く。 「イテっ! なんでまた叩くんだよ! おれがいじめたわけじゃないだろ!」 「心配ばっかりかけさせて!」 「実篤くん、本当にありがとう」  野原の母は頭を下げた。 「雪は人の気持ちがよくわからない子で、小学校の頃からこんなでしょ? いつも虐められているんじゃないかって心配していたの。実篤くんが助けてくれたなんて、本当に感謝です」  頭を下げる母親の横顔を見て、「感謝」と呟いてから、野原も頭を下げた。 「ありが……とう」  子供か。  槇はそんなツッコミをしたくなるけど。  だけどこれが野原雪なのだ。  感情に乏しくて、自分の気持ちがよく分からない。今感じていることを言葉にするのが苦手なのか。  だったら。  わからないなら教えればいい。  一緒にいると言い切ってしまったから、一緒にいてやる。  この時、槇はそう心に誓った。  大人になっても。  おじさんになっても。  野原雪は自分が守るのだ。  

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