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第21話 叶えたいこと

 懇願するような視線に、野原は頷いた。 「する。実篤(さねあつ)の叶えたいことはおれの叶えたいこと」  野原の表情は変わらないけど、その言葉には意思が見て取れて張り詰めていた気持ちが緩んだ。  そんな槇の気持ちの変化に気が付いているのかいないのか、野原は「どうするの?」と尋ねてきた。 「普通に仕事をしていればいい。保住との関わりもいつも通りだ。余計なことはしなくていい。ただし澤井との絡みは見ていて」 「わかった」 「出来る? 忙しいだろう。課長は」 「課長って思ったほど忙しくない。そんなの簡単」 「それって(せつ)だけだろう。課長はみんな忙しいんだ。現場の責任者だもの」 「そうかな?」  首を傾げる野原は真面目な顔をしたままだ。冗談ではないらしい。槇は笑うしかなかった。 「本当お前。そんなこと口が裂けても言うなよ? 浮くから」 「浮くってなに?」 「だから。もういいや。普通に仕事していろ」 「わかった」  素直にうなずいた野原を見て槇は思う。    やはり昇進するのは当然なのかも知れない。  課長の仕事は、市役所の中では激務だ。現場の決済権限者であり、現場の報告を上に上げる役目がある。更に苦情の対応、議会の対応、人事管理のこと。  課長が担う業務は一般職員の比ではないのに、それを「思ったほど忙しくない」と言い退けるのだ。  確かに教育委員会からの問題は市長のところに上がってこない。野原になってから万事うまく回っているということだ。  なんだかもどかしく思えた。  同じ建物の中で仕事をしているのに、自分は野原の仕事ぶりを見ることも知ることもできないだなんて。  逆にまったく違う仕事でもしていればよかったのかもしれない。そうすれば割り切れるものだからだ。距離的に近しいが故に感じる歯がゆさだ。 「それにしても、こんな写真まで寝ぐせ……」  野原は槇の心中など知る由もなく、テーブルに置いた保住の経歴書をもう一度眺める。 「え? 寝ぐせ?」 「これ、寝ぐせ」 「オシャレじゃないの?」 「違う。こんなのお洒落じゃない。保住はだらしがない。書類は的確で早い。だけど少々乱暴。はったりで通せる相手だけじゃない」 「雪~。それってお前、保住を育てているつもり?」  槇は苦笑した。 「育てるつもりはない」 「じゃあ、なんだよ」 「別に」  ばっさりと言い切った野原の手を今度こそ掴まえる。 「実篤」  細い指に自分の指を絡ませると、それに応えるかのように、ぎゅっと握り返してくる野原の手。  そういった反応は野原の意思表示。  槇は嬉しくなった。  ソファに座っている野原の腰を引いて床に組み敷くと、体の奥底がどきどきして、たまらなくなる。 「実篤、ごはんは?」 「どうせ食べないんだろう? お菓子のほうがいいくせに」 「それは……」 「黙って」  言葉を紡ぐ唇を塞ぐように重ねると、野原が息を潜めるのが分かった。  これ。  このキスの仕方を彼に教えるのは、かなり苦労したことを思い出した。  野原は読書が好きな人間だから、文字を文字として理解することは容易い。その代わり、行間を読むという、ちょっとしたニュアンスを理解することが難しい男だった。  しかも槇はそんなに頭がよくないので、野原が理解しやすいように言葉で伝えるということが苦手なのだ。   高校生の頃。 『いい? キスっていう行為があって――』 『本で読んだ』 『じゃあ、できる?』 『なんで実篤とするの?』 『それは……親愛、愛情の印だろう?』 『わかった』  騙したわけではないのだ。唇を硬く閉ざして、ぎゅーっと固くなっていた野原は緊張していたのだろう。  一人二役で必死にキスの仕方や、抱き合う仕草を教えたことを思い出すと、心がくすぐったくなる。  あの時、野原は真剣に食い入るように見ていた――。  最初は唇と唇を触れ合わせるだけの軽いキスだったけど、それをこじ開けて中にまで入り込むにはかなりの時間と労力を要したこと。今でも記憶に新しい。  槇はそんな昔のことに思いを馳せながら、野原を味わう。 『いろいろなことするのはなぜ? これ、全部キスなの?』  真顔で尋ねられた時は、答えに窮したな……。  馬鹿みたいなことなのに、二人にとったら真面目で重要な課題だった。 

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