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第29話 結婚とは
「お洒落に決まっているではないですか。野原課長。お洒落に疎いとは知りませんでしたね」
保住の声は大きい。総務係や文化財係の職員がくすっと笑い出すのがわかったが、野原は困惑した。
「――お洒落?」
――そっか。そういうお洒落があるの? いやいや。どう見てもお洒落には見えないけど。
「あまり流行を知らなすぎるのはよくない。品格を疑われますよ。いつまでも昭和気取りではね」
保住はさも筋の通った話し方をする。
「田舎くさい見てくれはよくないですよ。野原課長」
田舎臭い見てくれと、お洒落の違いがわからない。野原は考え込んでしまった。そして周囲は、保住の意見に賛同しているように見受けられた。
「少しくらいいいよな」
「課長は厳しいんだよ」
「お洒落にしたっていいじゃない」
そんな言葉が耳を突くが、野原は首を傾げた。みんなが自分を非難するような目で見ていたとしても、全く気にならない。野原は自分の中での結論を出すと、真っ直ぐに保住を見据えた。
「お洒落とは気の利いた服装のことをさす。おれは、その寝ぐせが気の利いた髪型とは思えない。それこそ、お前の品格を落とす。忠告してやったが、そう言い張るのであればそのようにしておけ。戻っていい」
野原の回答に保住は面白くないなさそうに視線を逸らして頭を下げた。
「ありがとうございます」
戻っていく保住の後ろ姿を見ながら、「あれがお洒落……」と何度か呟いた。
保住という男は優秀だ。部下たちに囲まれている。どんなに難しい案件でも顔に出すことなく、飄々とこなす。野原は彼に興味があった。槇のような無粋なことを抜きで。
確かに、副市長である澤井から何度も電話が来ているのは知っている。一係長宛てに、部長、次長、課長を飛び越して連絡が入ることは絶対にないはずなのに――だ。
しかし、彼は澤井には大した興味を示していない。むしろ、保住が大事にしているのは……。彼の隣に座っている部下の田口という男だ。
見た目は大型犬。身長は190センチメートルを超えているのだろうか? 少し屈んで出入口を通っている姿は、気の毒にも見える。ラブラドール犬みたいに、体が大きいくせに目が優しい。いつも保住に付き従って熱心に仕事に取り組んでいる。他の職員にはないような、素直さが見て取れた。
だからなのだろうか。野原は純粋に保住と田口に興味があった。
お菓子のこと、保住や田口のことを考えてぼんやりとしていると、別室いる事務局長の佐久間が顔を出した。
***
「のーちゃん」
彼は部下のことを「ちゃん」付けで呼ぶ。別にどんな呼び方をされても異論はない。野原は顔を上げて佐久間に視線をやった。
「局長」
「あのね。ちょっとお願いあってさ。振興係に」
「どうかされましたか」
彼と連れ立って、保住の元に行く。
「星音堂 、次年度改修工事の予算申請が出ているんだけどね。議会の前に水野谷課長に話聞いてきてもらいたいんだ」
佐久間はでっぷりと出たおなかを揺らしながら、野原と保住に話をした。次年度の予算取りの時期だ。議会で承認を得るために作成される資料のためだろう。
星音堂 とは、市内にある音楽ホールで珍しく市役所が管轄している文化施設だ。文化課振興係はホールのサポート業務も行っている部署だ。実際の運営は星音堂 に配置されている職員たちでこなすが、こうした事務的な業務は本庁が行っているというわけだ。
建てられてから随分たつと聞いている。芸術には疎い野原だ。星音堂 には足を運んだことはない。いや子供の頃に、両親に連れられてコンサートを聴きにいったくらいかもしれない。
そんなことを考えていると、話を持ちかけられている保住は困った顔をした。
「午後は別件の打ち合わせがありまして……、田口で大丈夫でしょうか?」
振興係の中でも担当が決められており、今年度の星音堂 担当者は田口だったことを思い出す。
「そうだね。書類は出来ているみたいだし、後は確認してきてもらえれば……」
佐久間は「うんうん」とうなずいているが、野原は口を挟んだ。
「佐久間局長、私が参ります」
「え」
「え!?」
野原の申し出に驚いたのは、佐久間だけではない。隣で座って話を聞いていた田口も声を上げた。
「のーちゃん、大丈夫なの?」
佐久間の驚きに、逆に野原はじっと目を瞬かせた。まずいことでも言ったのだろうか?
――そんなに驚くこと? それとも都合の悪いことでもあるの?
「予算取りにかかわることですから。自分の目で見てきます」
佐久間は苦笑した。
「もう、本当に真面目なんだから。課長自ら行くことないんだよ?」
「ですが、現場を見ておかないと。議会で答弁ができません」
「そうだね。時間大丈夫なら、お願いします。それから、たぐちゃんも。よろしくね」
佐久間は首を横に振って笑顔を見せながら事務室を出て行った。それを見送る田口の顔は青い。なんとなく理由はわかった。
「お前は嫌かもしれないが、おれも同感だ」
野原の言葉に田口は恐縮したように首を横に振っていた。しかし野原は関係ない。
「一時に公用車回して」
「は、はい!」
田口の返答に頷いてから、野原は自席に戻った。
***
お昼時間は苦痛だ。お菓子を食べることができたら、どんなに幸せだろうか。お茶を飲みながらじっとしていると、ふと目の前に総務係の篠崎がやってきた。女性の係長である。
野原は若い職員からすると、とっつきにくいらしい。若い女性職員が来ない代わりに、彼女のように中堅職員がなにかと世話をしてくれるのだった。
まあ今時、お茶くらい自分で入れるのが普通だ。いまや女性のほうが活躍する時代である。
しかし市役所とはまだまだ男性優位の職場でもある。いまだに部長職まで上がった女性はいないくらいだ。
だから、彼女のように係長で頑張っている女性には一目置くようにしていた。
彼女たちの提案は大変有意義だからだ。
「課長、今日は午後から外勤ですか?」
「そう。星音堂 に行く」
「まあ、いいですね~」
「篠崎さん、行ったことあるの?」
「ええ。娘たちが吹奏楽やっているもんですからね。よくお邪魔しますよ。とても素敵なホールですよね」
「そうなんだ……」
――知らなかった。興味深い。
そんなことを考えていると、篠崎がにこにこと笑って言葉をつづけた。
「課長はご結婚されているんですか?」
野原は人と話すが嫌いではない。興味深いことが多いからだ。ただ、こうして気さくに話しかけてくれる人は少ない。
「――結婚、していない」
「そうなんですか。もったいないですね。相手なんて山ほどいるでしょうに」
「そうだろうか。山ほどってどのくらい?」
野原の言葉に篠崎は笑い出した。
「やだ~。課長。山ほどって言葉のあやですよ。もう、面白いんだから……」
――言葉のあや? そうなの? 考えたこともない。結婚……?
だって、ずっと槇としか時を過ごしてこなかったから。自分が他の誰かと生活を共にするなんて想像もしてこなかったからだ。
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