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第30話 かわいい人
「あらやだ。照れちゃって」
「照れる? 違う。今までそんなことを考えたことが無かったから」
「そうなんですか? 意外ですけど。それって仕事一筋ってことでしょうか?」
「そう、なのか……、いや。あまり色々なことに気が回らないだけ」
「そうですか。いえね。ご結婚されていたり、恋人がいらっしゃったりするのであれば、星音堂 でのデートもいいです。とお伝えしたかったんですよ」
――デートって、二人で出かけること? 実篤 とは食事に行くくらい? デートってなんだろう?
あまり経験のない野原にとったら、篠崎の言葉はよくわからない世界の話に聞こえた。
「デート……」
――あれ? 実篤ってなに? 友達……。違う。友達とは一緒に住まない。家族? そう家族か。結婚とどう違う?
なんだか意味がわからなくなってきて、思考がこんがらがってきた。
「野原課長は恋人はいるんですか?」
「恋人……?」
「そうです。素敵な女子捕まえていそうですけど」
――女子。実篤は女性ではない。
「いない」
「えー! 本当ですか」
「本当。だって……」
――そう。実篤は女性ではない。
野原はそう思った。
篠崎は頬を赤くして、「まあまあ」と興奮気味だ。
――なんだか篠崎さんって可愛い? こういうのを可愛いっていうの?
不思議な感覚に戸惑っていると、ふと篠崎がぼそっとつぶやいた。
「あの……。今朝の課長はカッコ良かったですよ」
「え?」
「ほら保住係長の寝癖を指摘したじゃないですか」
「あれは……、課長としてのおれの仕事」
「でも……保住係長って頭良すぎるから、誰も太刀打ちできませんし。なのに野原課長の切り返し、スカッとしましたよ。
若い子たちは保住係長びいきですからね。なんかみんな彼よりだった雰囲気でしたけど。私は野原課長のご意見に賛成ですね」
彼女は肩までの髪を揺らして笑う。
――もしかして、励ましてくれている?
野原は彼女の気持ちに気がついたようだ。
「お洒落は気の利いた服装のことってね。同感です」
嬉しそうにする篠崎を見て、野原も笑みを見せた。
「ありが、とう」
篠崎は顔を赤くする。
「具合、悪い?」
「い、いいえ。もうやだな。本当に。野原課長。変な女子に捕まっちゃダメですよ。天然なんだから。しっかり者で引っ張ってくれる人見つけないと」
――しっかり者で、引っ張ってくれる人? 実篤とは正反対。
「おれにはそんなタイプじゃないと合わない?」
槇は自分には合わないということか。
「そうですよ。そんな無防備に笑顔向けられると困ります~」
彼女はキャッキャとする。
「可愛い」
「え?」
「篠崎さんって、可愛いんだなって思って」
「ちょ、ちょっと!」
彼女はきゃ~と叫ぶと、野原の背中を叩く。
「ごほっ」
飲んでいたお茶が詰まりそう。思わず咳き込むが、彼女は野原の様子なんて眼中にない。「可愛い」と言われたことで思考がオーバーヒートしたのだろう。
「もう!」
「?」
キャッキャっとして女子高生みたいな彼女は上機嫌で席に戻って行った。
「やだ。篠崎さん、どうしたんです?」
隣の席の後輩、高野に突かれて彼女は満面の笑みだ。野原には理解できない。だが、「可愛い」とか、「綺麗」はやはり女性への褒め言葉としては最高らしい。
「実篤は使い方を間違う。日本語の勉強が必要」
そう呟いてから、ふと時計を見て時間だと思った。
椅子にかけてあった背広を持ち上げてから、事務所を出た。田口との約束の時間だったからだ。
***
昼休みの廊下は賑やかだ。廊下をまっすぐに進み、階段を下りると従兄弟の朔太郎と鉢合わせになった。
「雪 じゃん」
「朔太郎……」
「なに? 外勤?」
彼はやはり近くに寄ってきた。苦手な男だ。
「時間あるから」
そう断ろうとしても、朔太郎は引き下がる様子はない。
「この前は実篤に邪魔されたもんな。なあ、うちに遊びに来いよ。お前、おじさんと全然会ってないんだろう?」
『おじ』とは野原の父親のことだ。首を横に振って、拒否の意を示すが、朔太郎には通じないらしい。
「最近、ばあちゃんが認知症気味でさ。おじさんもよく顔出してくれるんだよ。うちに来た時は必ず『雪は元気にやっているか』って聞かれるし。おじさんも会いたいんだと思うけど」
「おれは会いたくない」
「そんなつれないことを言うなよ~。同じ男同士さ。酒でも飲んで腹割って話せばいいだろう? そうしたらきっと仲良くなれるって」
――仲良くなりたいなんて思ってもみない。
なんとか朔太郎を振り切りたいのに、そう何度も都合よく槇が居合わせるはずもない。困り果てていた時。
「課長」
よく通るバリトンの声が響いた。入口から田口が走ってくるのが見えた。
「お時間ですよ。お待ちしておりました」
彼はそう言ってから朔太郎を見る。
「お話し中でしたか。申し訳ありません」
礼儀正しい田口の謝罪に、朔太郎は「いやいや」と首を振った。
「おれが足止めしていただけだから。いってらっしゃい。じゃあな。雪。今度」
踵を返して姿を消した朔太郎を見送ってから、田口は野原を見た。
「ご迷惑でしたか? お困りのご様子でしたので」
田口は野原の困っている様子を見てあえて声をかけてくれたらしい。野原は彼を見上げた。
「いや。いい。ありがとう」
「余計な真似だったかと心配になりました。――あれはなんでしょうか? 新手のナンパですか?」
――ナンパってなに? 嵐で船が動けなくなること?
田口の言葉の意味がよくわからない。野原は口元を緩めた。
「さあ。ただのバカ」
「え?」
「それより、時間」
「そうでした」
守衛に挨拶をして二人は正面玄関から外に出た。外はまぶしいくらい晴れていて、なんだか心がざわついた。
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