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第32話 大好きな人
「到着です」
駐車場に車を停めた田口に促されて、野原は外に足を踏み出した。
コンクリート造りの灰色の建物は近代的な設計だ。直線と曲線が絶妙なバランスで配置され、柔らかい印象を受けた。
周囲は緑の木々が覆っている。都会の中で、一瞬、居場所を失念するような感覚。車の往来する音も聞こえない静寂に包まれた空間は、目眩を引き起こしそうだった。
「課長、こちらです」
田口の声にハッとして彼の後ろをついて行くと、真正面の出入り口から中に入った。
屋内は日の中でも薄暗い。ぼんやりと橙色 のライトが灯る中、目の前にひらけた中庭の光景が印象的だ。
野原は真っ直ぐにその開かれた大きなガラス窓のところに立ち尽くす。
天井から床までの嵌め込み窓。隣には出入りできるガラスの扉がある。
中庭は、やはりコンクリート造りの殺伐とした雰囲気が漂ってはいるが、真ん中に植えられている大きなけやきの木が別の質感で存在感を醸し出していた。
だんだんと緑色がくすんで見えるのは秋が近い証拠だ。
ぼんやりとそれを眺めていると、後ろで職員となにやら話していた田口の声が耳をついた。
「そう言うな。今日は課長も一緒だ」
どうやら自分の話をしているようだ。もう少し見ていたかったけど……名残惜しい。
そんな気持ちのまま、振り返り田口のところへ向かうと、見たこともない長身の職員が頭を下げた。
「失礼いたしました」
なぜ彼が野原に謝罪するのかわからない。しかし田口に一々確認するようなことでもない。
案外どうでもいいことは気にしないのだ。
「いや、気にしない」
野原の返答に謝罪した職員だけでなく、田口も目を瞬かせていた。
こんなことは日常茶飯だ。野原の言葉に「キョトン」とする人間は多いのだ。だから気にしない。考えてもわからないことだからだ。
それよりも、この建物に興味が湧いた。キョロキョロと辺りを見渡していると、見知った顔の男が嬉しそうに駆けて来た。
星音堂長兼課長の水野谷だ。丸眼鏡の細身の男。下っ腹が少し出ている様子を見ると、中年であるということは一目瞭然だ。
彼を認めると野原は深々と頭を下げた。
「野原じゃない。どうしたの? 珍しいね」
「水野谷課長、お久しぶりです」
――嬉しい。
自然に笑みが洩れた。隣にいた田口は不審そうな視線を向けてくるけど、お構いなしだ。
だって嬉しいのだ。
そう、水野谷は野原の尊敬すべき上司である。目指すべき人なのだから。
なにも感じない野原が「目指すべき人」なんて可笑しな話なのかもしれないが、彼にだって誰かに憧れる気持ちは持ち合わせていた。
水野谷とは入庁して二番目の部署で知り合った。当時係長であった彼には、いろいろなことを教えてもらった。
野原の公務員人生の基礎は彼から学んだといっても過言ではない。
「文化課長だとは聞いていたけど、なんだか顔を合わせるのは何年ぶりだろう?」
「いつぶりなのでしょうか? 見当も着きません」
野原の答えに水野谷は考え込む仕草をしていた。
「本日は予算取りにあげる都合上、修繕現場を確認したいと思いまして」
「もちろん! 相変わらず真面目だね。自分の目で見ないと、なんて。あの頃と全く変わっていないね。野原は。えっと――星野、案内して」
水野谷の指示に、めんどくさいという顔をして立ち上がった男は、保住よりも見てくれのひどい男だった。無精ひげによれよれのワイシャツ。保住の寝ぐせどころではない。
窓際に座って、パソコンを適当に叩いていた無精髭の男――星野は「ちっ」と舌打ちをしながらこちらを見つめる。
「課長! 勘弁してくださいよ。おれも忙しいんですから」
「そんなこと言って、もう終わっているんだろ?」
水野谷は苦笑する。彼が無碍にもしない態度を取るということは、能力のあるできる職員なのだろう。
水野谷は複数名いる職員の中で彼を指名したのだ。野原は彼を認めると決める。
いくら見た目がひどくても、水野谷が信頼する職員に対する敬意は忘れない。野原は深々と頭を下げた。
「突然で申し訳ない。よろしくお願いします」
上司の野原に続いて慌てて田口も頭を下げた。
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