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第33話 ヲタク

「……で、ここの床材を変更したいんですよ」  野原は見積書をまじまじと見つめる。 「桜じゃないとダメなのか」 「桜の無垢材は音の響きを良くするんだ」  星野は「ほら」とホール全体的が見渡せる位置に野原を連れてくる。そして、周囲を指差した。 「あの壁面の青いタイルは陶器だ。九谷焼でできている。わざわざ取り寄せている」 「九谷焼」 「そうだ。あれも音の響きをよくするために設置されている」 「陶器に桜の無垢材」 「そして、この設計。全てが噛み合って、星音堂の残響時間は3秒。満席時でも2.5秒だ」 「残響、時間?」  野原の問いに、星野は大きく両手を広げたかと思うと、手を打ち鳴らした。パーンと空気を切り裂くような音が耳を突く。そして、その後、ホールには響が充満した。 「これは……」 「これこれ。どうだい? 随分と響きが残るだろう? これが残響時間。この時間が長いほど、響きは残って、音が豊かになる。まあ、強いて言えば、風呂場みてーなモンだな」 「風呂場……」 「そそ。風呂場で歌うと気分がいいだろう? あれは響きが残って、なんだかうまく聞こえる訳。カラオケもそうだ。エコーの調節機能を少し長めにすると、なんだか上達したように聞こえんだろう」  野原は困惑した顔をする。 「歌は、歌わない」 「あのさ。それはどうでもいいけどさ。想像もできない訳? じゃあ、そこの兄ちゃん、ここで一曲歌えや」  星野は田口を見ると、彼は「え!」と驚いてオロオロとした。 「う、歌ですか?」 「お前、歌えるの」 「歌えるわけがないじゃないですか! スポーツ一筋です。急に歌えと言われても、なにも思いつきもしません」 「残念」 「つまんねーし」  野原と星野の冷たい視線には耐えられないのか。田口は顔を青くしてオロオロとする。  ――困っているのか。  そう理解した。だから、話を元に戻す。 「それってすごいこと?」 「すげーし。残響時間コンテストがあったら、全国でも五本の指には入るぜ?」 「そんなにすごいんだ……」  ――知らなかった。そんな素晴らしいホールが市内にあっただなんて。 しかも今まさに、自分たちが管理の手伝いをしているのだ。なんだか誇らしいと田口は思っているのか、目をキラキラとさせている。 「じゃあ、やっぱり桜の無垢材限定」 「そうだよ。だからそれで見積もり出してんだろ。このホールも老朽化してんだ。建築当初よりも木材も陶器も劣化している。このままだと、このホールの売りの残響時間が短くなる。だからなんとかして欲しいんだよ」  星野の要望は最も。素晴らしいものを素晴らしいままで維持するのも役目。  野原は頷いた。 「じゃあ次は」 「おう。次はあのパイプオルガンだ。あれはデンマークからの輸入品でよ、ちと部品が高くつく。だが、あれも劣化してきている。全部取り替えるわけじゃないけど、猶予があるなら劣化が酷いヤツから取り替えたい」 「なるほど。パイプって……」 「あれは3155本あるんだ」 「そんなに?」  田口が声を上げる。彼は星音堂(せいおんどう)担当のはずだが、そう詳しいことは理解していなかったようだ。野原の視線に彼は黙り込んだ。 「それ、全部取り替える?」 「そんなことは不可能だろう。優先順位は業者と相談しいている」 「ふうん」 「っつかさ。あの。えっと課長さん? あんた、細かいこと気にするんだな? 今までの課長さんはそんなことまで聞かなかったし」  星野はめんどくさそうに顔をしかめる。  ――だって。 「興味ある」 「興味?」 「そう。面白いんだなって。星音堂(せいおんどう)って。面白い」 「あのさ。面白いとか言う人、珍しいんだけど」 「そう?」  野原の反応に満足しているのか、星野はめんどくさそうな顔を止めた。 「おもしれえ。いいぜ。なんでも聞きなよ。おれ、結構星音堂ヲタクだからよ。あらかた答えられるぜ」 「仕事熱心な職員」 「じゃねーし。趣味だよ、趣味」  なんだか妙に意気投合する野原と星野の後ろをくっついて、田口は弱った顔をしてばかりだった。

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