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第34話 止める役目
一時間ほど説明を受けてから事務所に戻ると、水野谷がワクワクした顔をして待っていた。
「どう? 野原……じゃなかった。課長」
「やめてください。呼び捨てで結構です」
野原は手元に持っていた発議書、見積書に視線を落としてから頷いた。
「星野さんの説明はよくわかりました。どれもこれも星音堂 の質を維持するには必要であると理解しました。議会でなんとしても通したいと思います」
「わ~! 野原にそう言ってもらえると嬉しいな。頼りにしているよ」
「精一杯の努力はいたします」
「よろしくね」
「それでは、仕事がありますので」
「うん。また遊びにきてね、あ、後、これ」
そう言うと、彼はチョコレートを取り出した。
「野原好きだよね。お菓子」
野原の顔がぱあっと明るくなった。
「お駄賃ね」
「課長、大の大人にお駄賃って」
星野は呆れた顔をしたが、野原は嬉しそうに頭を下げた。
「ありがとうございます」と微笑んでから袋を受けった。事務所をあとにして、正面玄関から外に出ようとしたとき、水野谷が後ろから声をかけてきた。
「そうだ。野原。時間があるときに、また行こうか?」
「はい」
水野谷と同じ部署だったころ、よく飲みにつれて行ってくれた。そして、仕事のノウハウを教えてもらったものだ。きっとそのことだあろう。
野原はお菓子を抱えて、そのまま田口を引き連れて駐車場に続く道に出た。
残暑も終わり秋の気配が訪れている森林が目前に広がった。野原はふと足を止めた。
「課長?」
後ろからついてきた田口が声を上げる。
――意外だった。想像が外れた。星音堂 とは、本庁では「流刑地」とも呼ばれてる。
一度配属されたら余程のことがないと復帰できない場所。
市役所の異動は通常は三~五年。係長クラスは三年。課長クラスになると二年程度。かなり頻繁に動かされるのだ。
しかし、なぜか星音堂 に配置されるとそれ以上置かれることが多い。
――あの星野という職員は何年ここにいるのだろうか。
みんなが「あそこに行ったら終わりだ」と言っているのを聞いたことがある。だから、大好きな水野谷が星音堂勤務になった時、野原なりに心配したことを思い出す。
――だが、どうだ。ここにいる職員たちは、本庁のいい加減な職員よりもきちんと仕事をこなす。施設のことを詳細に把握し、良さも悪さも知っている。施設の活かし方を知っている。意外だった。
「星音堂 に勤務することは、恥ずべき事と習うものだが。こんな場所で勤務が出来るなら本望だな」
田口に言っても仕方がないのに。つい、思っていることとして、言葉が口をついた。
すると、ふと後ろから田口の声が聞こえた。
「課長は無理をなさっていませんか」
――どういうこと?
意外な言葉にはったとした。
「無理、だと?」
「そうです。……失礼致します」
意表を突いて伸びてきだ逞しい腕に肩を引き寄せられたかと思うと、田口の方に振り向く格好になる。じっと野原を覗き込む瞳は漆黒で真面目。真剣そのものだった。なんだか困惑した。
「田口」
「本気で槇さんのやっていること、やろうとしていることを支持できますか」
――その話?
「……」
野原は田口をじっと見つめていたが、ふと笑みをみせる。
――そんなことは決まっている。
田口になんて問われなくても。過去も未来も答えは出ているのだ。
「実篤の夢をおれは叶えてやりたい。それだけだ」
――そう。ドジで、ツメが甘くて、いつも失敗して、コントみたいなオチになる槇が愛おしい。大事なのだ。
行き着く先が地獄だとわかっていても、きっと、自分は彼と共にある。彼に救われてきた人生なのだから。
「……」
黙り込んだ田口を真っ直ぐに見上げて、言葉を続けた。
「実篤のやる事の是非を決める権利はおれにはない。ただ、あいつがやりたいなら、やらせてあげたい。それだけの話」
田口はさらに困惑した顔をする。
「なぜ?」と田口は問う。
しかしそれは、野原が聞きたい。
――なぜそんなことを聞くのだ。当然のことなのに。
「なぜ、そんなにまでして、貴方は槇さんに尽くすのですか?」
「槇は――お調子者で、なにやってもツメが甘くて、結局は結果なんて出せない男だけど。おれは何度も彼に救われた。あいつがいなかったら、きっと……今ここにいないと思う」
「澤井副市長を蹴落としてもまた次が控えていますよ? 蜥蜴の尻尾切りだ。もっと性悪が副市長の座に座るかもしれない。安田市長の任期は来年までですよね? 安田市長の続投はあり得ない。槇さんは来年の冬にはいなくなるのです」
――そう。安田市長の任期は来年11月だ。
何期もこなした彼の市政は、市民には飽きられているのは間違いない。誰しもが、「安田には次期はない」と口を揃えて言う。
安田が引退するということは、私設秘書である槇の秘書生命も終わりだ。彼は市役所に足を運ぶことはなくなるのだ。
そうなると、必然的に二人の職場は違える。
そのことを言っているのだろう。
「そんなことは重々承知だ。だからこそ」
「だからこそ、そんなことさせていいのですか? 槇さんに。あなたは止める役目がある。それを放棄して槇さんと一緒にいられるのでしょうか?」
田口の言葉は感情鈍麻な野原の胸に突き刺さった。
――止めるだって?
誰が。
自分が?
誰を。
実篤を?
なぜだ。
なぜそんなことをする――?
大事な人のやり遂げたいことを叶えさせてやるのが愛情なのではないのだろうか。
野原には理解できない。なんだか、胸がざわざわとして落ち着かない。居処が悪いと足元もおぼつかなかった。
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