35 / 76
第35話 愛情表現は色々
迷いを含んだ瞳で彼を見つめると、田口はその意図を察したのか自分の問いについて言葉を続けた。
「おれだったら、もし保住さんがそんなことしでかすと言い出したら。おれは全力で止めます。例え正攻法であったとしても、誰かを蹴落とす、陥れるなんてことはあってはいけません。
保住さんがそんな道を踏み外す行為を行うと言い出したら、命に代えてもやめさせます」
「田口……」
――命に代えてもやめさせるだって?
田口は「大事な人が汚れていくならば、それを……体を張ってでも止める」と言いたいのか。
「大事なんでしょう? 槇さんが」
田口は野原の心を揺さぶるようにたたみかけてくる。迂闊だったと思った。田口は単純な思考回路だから、理解できそうな人だと、つい話をしてしまったのが悪い。
いつのまにか田口に引きずり込まれている自分がいることを初めて理解した。
――気がつくのが遅い。引き返せない。
「……お前になにがわかる――」
「わかります。多分。おれが保住さんを大事に思うように、あなたも槇さんが大事なのですから」
田口の視線は真っ直ぐ過ぎて、野原の心に突き刺さった。
――大事。大事なのだな。田口にとって保住は大事。そして保住にとっても田口は大事。その気持ちって、自分が実篤を大事に思っている気持ちと同じなの?
「……っ」
――わからない。
動揺しているのが自分でもわかる。心を落ち着けたい。目の前に広がる木々を眺めていても、心は大きなうねりを伴って嵐みたいに揺れていた。
「実篤は昔から自分の思い通りの世界に固執していた。自分は弱いから権力が欲しいって。いつも」
――そう。実篤が弱い人間だって知っている。
子供の頃から、よく隣の家から母親や姉たちの声が聞こえてきていた。それは槇を馬鹿にするような言葉が多かった。彼はそんな中で必死に自分を保とうとしていたのだ。
そして中学校以降、一緒にいる時、彼は必ず「力が欲しい」と言った。
『力さえあればお前を守れる。そしておれ自身もだ。おれの人生が認められる時がくると信じている。だがそれは、やはり力を得た時なのだと思っている。雪 。こんな馬鹿みたいな子供じみた野心しかない男だ。それでも一緒にいてれくれるの?』
槇は野原を支配することで、充足感を得ていることも知っている。
そしてそれは、自分も然りだ。
槇を満足させてあげられるのは自分だけだという自負が、野原の気持ちを満たす。だからこそ野原は、槇がどんなに馬鹿気た道を進もうとしても止めないし付き従う。
それができるのは自分だけだからだ。
しかし田口の認識は違っている。
大好きな保住が地獄への道を歩もうとするならば、止めるのだという。命がけでだ。
――それはそれで愛情か。自分よりも深い愛情かもしれない。また一つ、理解できた。
「おれは、ただそれを叶えてやりたいとしか思ったことはなかった。だが、田口――」
田口のような愛情表現もあるということ。
「お前のような捉え方をしたことはなかった」
野原は田口をじっと見据えた。彼は少々困惑した顔をしていた。
「は、はぁ……すみません」
「謝るべきことではない。新しい発見だ」
「えっと」
野原は何度も頷いた。よく理解したのだ。田口の考え方を。自分以外の考え方を理解すると心が躍る。ワクワクするのだ。
そして、その気持ちに同意している自分も認識してした。
「なるほどな。止めさせるのか? 下らない野心になどかまけることなく、足元を見ろと言ってやるのだな」
――そうだな。実篤の子供染みた茶番を握り潰すのも一興か。どんな顔をするのだろう?
きっと怒って泣きわめくのだろうな……。
――しかし、どうしてだろう? 田口の言うことは、おれたちには必要な考え方であると思う。
――これはどういうことなのだろうか?
野原にはよくわからない。しかし、そう思われたのだ。
いや、正直自分もそう思っていた。槇のしでかそうとしていることは無謀で無意味だと心の中では思っていたからだ。だからこそ、田口の意見に同意したのかもしれない。
「いや、そこまでは」
田口は慌てて首を横に振るが、野原は聞いていない。
「確かに下らないのだ。澤井副市長を下ろしてもなんの解決にはならないのだ。理解した」
「野原課長……」
「保住は、お前がそうしたらなんと言うのだろう?」
野原の質問に田口は考え込んでから苦笑した。
「多分、最初は怒るかも知れません。しかし、わかってくれると思います。課長、きっと槇さんもわかってくれるのではないでしょうか?」
――いや。実篤は……。
「いや。実篤は泣き叫んで大騒ぎをして喧嘩別れになるだろうな」
「え――じゃあ、それはやめたほうがよろしいのでは?」
「いや。それは実篤には……おれたちには必要なことである気がする」
「課長、大丈夫なのでしょうか?」
「心配、してくれるの?」
田口という男は、自分の大事な人と敵対する立場にいる野原のことまで心配するのか?
野原は心が少し暖かくなる気がした。
「それは心配もします。あなたは真面目で真摯。おれは尊敬すべき上司だと思っていますから」
「おれが――?」
野原は目を瞬かせて田口を見据えた。彼は少し照れたような顔をして言った。
「おれが、尊敬すべき上司?」
そんなこと言われたことがないから、どう理解したらいいのかわからないのだ。
戸惑った気持ちを処理しきれずに顔を逸らす。
「帰るぞ」
「はい」
今晩は嵐になる――。
そんなことを思いながら。
ともだちにシェアしよう!