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第38話 見ていたつもり

「槇さん。あなたの市役所(ここ)での地位は、安田市長に依存している。もっとやりようがあるはずだ。敢えてリスクの高い方法を選ぶ必要はないと思う。それにもう、時間は限られているのに、なぜそんなに権力に固執する? 市長の時間は少ない。円満に終わる事を選択しないのか」  保住の問いは槇にとったら愚問。  答えは一つだからだ。 「今の役所は誰かの傘下に入らないと上には行けない。君のように、意に反して巻き込まれ、押し上げられる人は稀だ。君にとったら不幸以外の何ものでもないことかも知れないが、そう言ったものが欲しくても手に入らない職員が大半なのだ」 「おれは迷惑だ。そんなものがあるせいでやりにくくて仕方がない」 「それは贅沢な悩みだ。一般職員はそうではない。あわよくば上司に気に入られ、その上司が更に出世し、自分を引き揚げてくれることを待つしかない。不透明な人事の結果だ」  『不透明な人事』という言葉に、保住は反応した。 「昇進試験がないからな。明確な判断基準がないおかげでそういうことは起こりうる……」  保住はそう言いかけて、語尾が不明瞭になる。彼の思考が邪魔をしているのだろうか。  そして、一つの考えにたどり着いたらしい。一度、ぼんやりとした視線が、はっきりと光を帯び、そして槇を見据えた。 「野原課長のこと、心配しておられるのだな」  ――正解。やはり頭の切れる男は嫌いだ。  槇は心の中で自嘲し、それから保住に視線を戻した。 「野原は、……(せつ)は、あんな調子だ。無愛想で、不器用。真面目で仕事熱心なのに、なかなか目立たない。融通も効かないし、上司には嫌煙されるタイプだ」  だから。 「しかし能力が高い。今までになく出来た上司だ。だからこそ勿体ない!」 「勿体ない?」  保住の言葉に驚いて尋ねると、彼は冗談ではないとばかりに真面目な顔で答えた。 「そうだ。こんな不正に加担させて、潰すつもりなのか? 澤井に目をつけられた職員は酷い目に遭う。おれがその典型例だ。野原課長が大事なら、わざわざあの人に手を出すのはやめた方がいい。澤井は徹底的に野原課長を潰しに掛かる男だ。おれや田口のことを見たらわかるだろう?」  『田口』とは保住に付き従っていた職員か。槇はふと、昨晩の田口の様子を思い出していた。 「君は田口くんを随分と信頼しているのだね」 「当然だ。あいつはあいつの実力でやっている。おれが擁護しないといけない、なんてタイプでもないし、そんなことは望んでいない。おれがあいつを守るなんて、ことは思っていない」 「おこがましい、か」  自分が野原を守りたいという気持ちは、おこがましいというのか。確かに昨晩の敗因は、保住に責められている野原を助けようと口を挟んだことで、自分たちの関係性を保住に晒してしまったことも一つだ。  野原のことになると我慢できないのだ。保住が信頼している田口という男は、いくら槇が保住と言い合っても、口を挟むことなくじっと座っていた。  確かに忠犬。主の指示なしには動けない忠犬。  いや――違う。  膝の上で握りしめられていた拳は、声を上げたくてもじっと耐えていたに違いないのだ。  それは、保住を信頼しているからこそ。心配で仕方がないのに、じっと耐えて押し黙っていたのだろう。  ――自分はどうなのだ?  野原のこと、よく分かっていないくせに。野原雪という男は、人の気持ちが分からなくて、人づきあいも下手で、槇が側にいないとダメで……。  ――本当に?  自分が側にいなくても野原はすっかり市役所職員としてやっているではないか。  ――じゃ、おれはどうしたらいい?  自問自答していると、ふと保住の声が耳に入ってきた。 「槇さん、野原課長の仕事ぶりをちゃんと見てあげないと。それはあなたにしか出来ないことだ」  ――見ている。見ているだ。なのに自信がない。  保住のほうが野原のことを知っているというのか?  槇は動揺していた。生まれてからずっと、野原の一番の理解者は自分であると思っていたのに、目の前にいる男は自分の知らない野原を語るのだ。目の前がちかちかとしている気がする。眩暈がした。 「では、失礼いたします」  礼儀正しく頭を下げて市長室を出ていく保住を見送って、槇は「お疲れ様」と呟いた。

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