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人工呼吸を求めます①
発作のように涙が溢れ出す。珍しいことじゃない。何かで頭を埋めつくしておかないと。考える暇を脳に与えてはいけない。隙を作ってはいけない。でも彼はすぐに隙間を縫って俺の前に姿を見せる。
抱きしめて欲しくて首に手を伸ばすと、赤茶色の長めの襟足が指をくすぐるあの感触。姉がつけている流行のカラーマスカラが彼の髪の色にそっくりで、その睫毛の瞬きに目を奪われ崩された。
姉二人に頼まれたハーブティーを入れ、テーブルに並べている途中で静かに涙がこぼれ落ちる。突然泣き出した弟に姉達は目を丸くした。
「出雲?! どうしたの?」
「やだぁ、目にゴミでも入ったのぉ?」
ソファに座って寛いでいた二人はすぐに立ち上がって俺を囲み、揃って頭をやたらと撫でてくる。涙を拭って鼻をすすり、笑顔を見せようとしたが末姉の赤茶色に塗られた睫毛がまともに見られない。
「大丈夫です……ちょっと目が疲れているのかもしれません。ハーブティーが冷めてしまうので、座ってゆっくりしていてください」
やんわりと姉たちから離れて、洗濯物してきますね、と逃げるように立ち去った。
逃げないと捕まってしまう。日本人なのに光の加減で琥珀色に見えた彼の瞳が浮かぶ。その瞳に赤みがかった前髪がかかるのが綺麗だった。
見つめて欲しい。彼に見つめられると蛇に睨まれたかのように動けなくなってしまう。そしてそのまま、いいように乱暴に抱かれてしまう。埋まってく、自分がまた彼に埋まってく。
先生、先生、先生!
他のもので無理矢理にでも埋めないと息ができない。気持ちいいことでいっぱいになりたい。何も考えたくない。先生を求めていればそれに夢中になれる。それに縋りつかないと息ができない。
洗濯機を回し、スウェットのポケットからスマートフォンを取り出す。
先生にしばらく会えていない。自分は冬休みが始まったが先生はまだ仕事納めを終えていないため、いつもより忙しいようなのだ。しかし今日は二十八日なので明日ぐらいでそろそろ休暇に入るのではないだろうか。
先生の連絡先を見ると、毎回かなり複雑な心境になる。名前順のせいで大鳥ハヤトの下に加賀見先生の名前が表示されるのだ。
先生に電話をしようと思いながら、ハヤトの連絡先を開く。受話器の上がったイラストを凝視するが指は動かない。ちがう、ハヤトじゃない。ちがう。
「ねぇ、出雲」
洗面所にひょっこり顔を出した長姉に背後から突然話しかけられ、心臓が止まりそうになる。手に汗をかいてしまっていたため、滑ってスマートフォンを落としてしまった。姉は笑いながらそれを拾って渡してくれる。
「ハヤトってあのとんでもないイケメンの子でしょ? 最近雑誌でよく見るよ。凄い子と友達よね」
画面を見たようで話を振られたが、曖昧に笑うしかできなかった。
彼は本当に本当に、かっこよかった。眩しくて好きで好きで堪らなかった。高校の中でも知らない人はいないほど有名で、そんな彼とこっそり逢瀬するのは毎回ドキドキした。あまり興味はないらしいが金払いがいいとモデルの仕事を始めてからは、学校どころか世間もほっとかない存在になってしまった。おかげで見ないようにしてもいやでも目に入り困り果てているけれど。
「あんた疲れてんじゃない。いつもありがとうね、家のこと全部やってくれて。年末だし最近は大掃除もしてくれてるんでしょ?」
「いえ、いいんです。家事は得意ですし。母さんも姉さんたちも忙しいでしょう」
「明日はみんな忘年会だからさ、ゆっくりしなよ。お小遣いあげるからご飯作らないで何か美味しいもの食べな」
ありがとね、と繰り返しながら五千円札を出してくるので驚いて返そうとしたが、頑としてそれはさせてもらえず受け取るしかなかった。五千円札を握らせて満足した姉はリビングに帰っていく。それを見送りながら申し訳なさでいっぱいになるが、何もできることがないので年末年始の準備をますます頑張って返すしかない。嬉しい気持ちもあるが、おせちの品数でも増やすかとため息が漏れた。
素直に甘えてしまえばいいのに何故できないのだろう。自分の性格に嫌気がさす。無駄に疲れる。
またスマートフォンの画面に目を落とす。バックボタンを押すと、大鳥ハヤトと加賀見先生の名が並ぶ。今度はきちんと先生を選んで通話ボタンを押した。
コール音を聞きながら、自分に言い聞かせる。
先生はハヤトと違う。先生は俺が好き。俺のことが好きだから甘えてもいい。我儘を言っても許してくれる。先生は俺が好きなのだから、大丈夫、大丈夫だ。
ぷつ、と通話が繋がった音がする。しかし無言。先生らしい。
「あの……先生、加賀見先生ですか」
「いずも……」
先生のゆっくりと静かな声に安心して息をつく。
「お仕事忙しいですか。いつまでですか?」
「あした」
「あの明日なんですけど、家のものがいなくてご飯の心配がないので、夜会えたりとかしないでしょうか……あ、でも先生たちで集まりますか……?」
断られてしまうかもと思うと、緊張して喉が渇く。早くリアクションがほしいのに受話器の向こうは静かだ。待ちきれなくて気を引きたくて、淫らな自分を呼び出す。
「先生、会いたいです……一人でするのもう嫌です」
そんな気はなかったはずなのに、言葉に出すと腰がそわっと落ち着かなくなる。先生に悪い子って言われたい。悪い子がいい。
「人妻みたい」
しかし予想のナナメ上をいく返事をされ、ずっこけそうになった。
「なんですか、それ。ふざけてるんですか」
「ご飯の心配、とか……不倫のきぶん」
「変なこと言わないでください! もう……それより、明日は、その……」
流れに身を任せるとすぐ先生の変なペースに持っていかれてしまうので、気を取り直して話を戻す。ちょっと聞くのが怖いけれど。
「仕事……終わったら、車で迎えに行く」
「え、あっ、じゃあ電話切ったら住所送ります」
「知ってる」
「え?」
「家。知ってる」
「なんでですか!? 気持ち悪いです」
不意打ちに本気のトーンで返してしまったら、ふふ、と低く笑う声が僅かに耳に入る。先生、笑ってる。普段あまり笑わないから笑うなら目の前でしてほしいな。
「あしたね」
先生はそれだけ言って電話を切った。安心してストンとその場にしゃがみこんでしまう。なんで家を知ってるかは気持ち悪いからスルーしよう。とにかく明日には会える。自分の中を先生でいっぱいにできる。
洗濯が終わるのを部屋で待とうと立ち上がろうとしたら、ピコンと通知音がスマートフォンから鳴った。メッセージがきているので確認をすると「エッチな写真ちょうだい」と書いてあってドン引きする。
「き、も、ち、わ、る、い、で、す……と」
返事をすると、またすぐに通知音がして「おっぱい!」と表示されているのを見て驚いた。
びっくりマーク! 感嘆符! エクスクラメーションマーク!
先生のテンションにあまりに合わないので盛大に吹き出してしまうと、もう一度「おっぱい!」と追撃されて参ってしまった。本当に変な人。
おっぱいのエッチな写真なんて、女性でもないのに撮れるわけないじゃないか。そもそも自撮りすらしたことがないのに。スウェットの襟首を広げて中を覗く。これじゃあ暗くて見えないな。顔も写ったほうがいいのかな。
スウェットの裾をたくし上げ、片側だけ胸を晒す。先生に大きいと言われるまでなんとも思っていなかったけれど、確かに桃色をしたそこは乳輪からふっくらとしている。恥ずかしいので目線は合わせず俯いて写真を撮る。凄くいけないことをしている気分がして、いや実際にいけないことなのだと思う、頭が熱くなって仕方ない。自分で改めて見るのは無理なので、薄目で写真を選択し先生に送った。
送ってから、もしかしたら本気じゃなかったかも、どうしよう恥ずかしい、いつも気持ち悪いって言ってるけど俺の方が気持ち悪いかも……と心配で心配で血の気が引いていくのを感じる。さっきまで汗ばんでいた指先が冷たい。
体育座りをして待っていると、ピコンと通知音が鳴る。メッセージを確認。「えっち!」と来たと思えばすぐに「おっぱいにかけたい」と追加で表示され、冷えた頭がまた熱くなる。血圧が下がって上がっておかしくなりそう。
早く明日にならないかな。先生の車に乗るのは緊張するな。先生、早く会いたいです。
次の日の十九時過ぎ、本当に先生は車で迎えに来てくれた。運転席から身を乗り出して助手席の扉を開けてくれる姿を見ながら、先生やっぱりちゃんと大人なんだと改めて思った。先生なのだから当たり前なんだけど。
車のことは全然分からないけれど、外装はスマートでかっこいいし、中は革張りで高級そうだというのは伝わった。保健教諭ってそんなに給料いいのだろうかと首を傾げるが、車が好きなのかもしれないなと思い直した。
ホテルはまずいから家に行こうと招かれたマンションも立派なところで、ハヤトが一人暮らしをしている小さなアパートとは段違いだった。部屋が一つとキッチンしかない彼のアパートでよくご飯を作り、抱かれた。キッチンには俺が揃えた調味料があって、部屋はものが少なく殺風景で。
ちがう、そんなことを考えるためにここに来たわけじゃない。
それなのに玄関へと上がった途端、また俺の涙腺は壊れた。
その場から動けなくなり、ただただ涙をぽろぽろと零した。初めて来た部屋でもう行くことのない部屋が恋しくて泣いた。
「いずも?」
先を歩いていた先生が振り返る。目が合うと申し訳なくて余計に泣けてきた。とうとう嗚咽しだす俺の頬に先生の手が触れる。大きな手。ハヤトより華奢だけど。指先で涙に触れ、拭う。俺の背に合わせてかがむ先生の首に抱きつく。先生の黒い髪はこの腕をくすぐらなかった。
「先生、好き、好きです……会いたかったです」
だから嬉しくて泣いてます。
とってつけたように言った好きという言葉に、先生は何も返さない。抱き締め返してもくれなかった。しかし泣き止むのを待って、ひたすらに背中をさすってくれたのだった。
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