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恋人になれたらよかった⑪ ※先生視点
強く抱きついてくる君の顔があたる、僕の前髪が濡れてしまうほどに涙が溢れている。しゃくりあげて咳き込む君の背を撫でて落ち着くのを待つが、泣き止む気配を全く感じられない。ギィとブランコのチェーンが軋む音が響く。
「先生の……うそつき……」
「うん?」
「俺のこと……およめさんにっ、するって……やっぱりふざけて……」
一瞬なんのことだか考えてしまったが、酔ってボロボロと本音を吐き出してしまったことを思い出した。君とも嫌な朝を迎えた上に理事長と話し合いをしたあの日、帰宅する気になれずに君と問題なく傍にいられて、法的にも縛り付けられる方法として真剣に養子縁組を考えていた。
「嘘じゃないよ? 君が二十歳なら、お嫁さんにしたいよ。でも……君の年齢だと、まだ養子を組めないからね」
「でしたら……二十歳になったらお嫁さんにしてください」
顔を上げた君は何度も何度も鼻をすすり、吐く息を震わせながら僕に口付けた。
「俺の幸せを勝手に決めつけないで」
僕を見下ろす君に両側から頬を包まれる。僕の冷えた頬にその手は温かい。君が僕へ降らしている涙など熱いくらいだ。
「先生のお傍にいることが……俺の幸せです」
なぜなのだろう。
理解ができなかった。そこまで僕に拘る理由がわからない。大人への憧れなのか、ここまできて引き返せないから意地になっているのか。
これまで自分を犠牲にしたその苦労を無駄にするのが嫌なのかもしれない。それなら理解できる。心血注いで取り込んだことが一瞬で立て直せなくなり、徒労に終わる辛さなら僕にもわかる。先日ジャンク品のビデオデッキの修理に失敗した時は、パーツ集めからとても苦労したのでなかなか落ち込んだ。
僕も修理のできないジャンク品のようなものだよなぁ、と思ったら少し笑えた。君は怪訝そうにそんな僕を見る。君は弄ればいじるほど思う通りに可愛い身体になって、大変優秀な素材だった。
色素の薄いまつ毛が束になるほど濡れている。可愛いな。君の背後を照らす街灯の明かりが、まだ髭のなく柔らかな産毛しか生えない頬の輪郭を輝かせる。
縋りつく可愛い君を見ていたら手放すのが惜しくなってくるのも当然で。でも手放す以外の選択肢は用意されてなく、自分を慰めるためにいい加減なことを零した。
「じゃあもし二年後、再会できたらね」
誠意のない言葉はそれでも少しの希望になったのか、君は目を丸くした。しかし驚きを見せたあと、眉を下げて目を伏せる。
「それまでお別れですか……」
「今……ね? そばにずっといるのは、難しい。理事長……僕のお父さんと、色々約束しているんだ。電話、聞こえてたね?」
出雲は下唇を噛んだ苦い顔をして頷いた。
「どうしてバレてしまったのですか」
「元々……あの人は、僕が邪魔だったから」
「先生が俺のこと担いで歩いたからじゃないですか」
むすっと唇を尖らせて頬を少し膨らます君の涙をまたハンカチで拭う。新たな涙は引っ込んだかな。
「そうかもね」
本当はあの出来事は一切関係なく保健室に盗聴器を仕掛けられていたのだが、出雲の名誉のためにそのことは言わないでおこうと決めている。僕のことなど気にしていないと思っていたのでそんなものを仕掛けられていた事は意外だったが、不倫相手を切りたいその執念のおかげで逃げ道がなくなって助かった。
盗聴だって犯罪だ……大人しく辞めるから僕たちのことは放っておいてくれと交渉することもできたが、僕は敢えてそれをしなかった。音声データの回収だけできたのでそれでいい。
「まぁ、そういうこと……だから。さようなら」
僕の頬を包んだままの手が震える。肩が震え、出雲は今にもまた泣いてしまいそうだった。
せっかく水分をとったのにそんなに泣いたら意味がない。自分の頬から出雲の手を剥がして立ち上がると、出雲は俯いて顔を覆い嗚咽を漏らしはじめた。ベンチへ行ってスポーツドリンクを取りに行くだけの短い時間だったが、遠目から見たブランコに座って涙する君が悲しくて、僕がそれを泣き止ますこともないのが辛い。
ペットボトルを渡すと君は黙ってそれを受け取り、飲み干すような勢いでごくごくと喉を鳴らしながら水分摂取を行った。利尿作用のある紅茶の後のにスポーツドリンクをこれだけ飲んだらいつもより簡単に潮を吹きそうだなんて不謹慎なことを思いながら(心の底から僕と言う男は最低である)、隣のブランコに僕も腰掛けて一緒に持ってきた缶チューハイを飲む。
「二年後……」
希望を持って小さく呟く君の声が耳に届き、僕も二年後に期待したくなる。
建て直し不可能な今のこじれた感情もそれだけ時間を置いたら変わるだろうか。でも僕の二年に比べて君の二年はきっと長く、色々な出会いが待っているだろうことを思い、君に見られないよう小さく首を横に振った。
「ふふ、君、待てなそうだよね? すぐ誰かに……抱かれていそう」
「確かに俺は辛抱強くないです。先生、いいんですか? 離れて俺が誰と何してもいいんですか?」
「やだよ……僕が見えないところでやって」
君と他を想像しそうになってすぐに打ち消す。先生と甘えて呼ぶ君のことしか頭に残したくない。
「そもそもそんなは相手は見つからないですけどね」
「そう? 君のおともだちは? あんなに感じて、満更でもなかったよね?」
いくらでもいるじゃないかと皮肉めいた言い方をすれば、君はブランコから離れて僕の目の前まで来て頬を打った。大して痛くはない……しかし出雲はすぐに手が出るな。いや今までは足だったから、叩かれたのは初めてだったか。手元がブレて地面に零れた甘いお酒の香りがのぼってくる。人工的な、チューインガムのような林檎の香り。
「そんな意地悪言うんですか? ならすぐにでも襲ってセックスしてきます。それでいいですか」
「怒ってるね」
「怒ってます。嫌いです、先生なんか大っ嫌い。もう知らない」
「なら……もう、泣くのはやめなよ」
素直に涙を流していた顔が、悔しさと怒りと悲しみを含めて歯を食いしばり歪む。このまま泣いていたらカラカラに干からびてしまいそう。
「俺がどれだけ覚悟を決めても、全てを捨てようとしても、先生の中では全部決まっていたんだ。馬鹿みたいです。一人相撲でした」
「決まってたわけじゃ、ないよ? どうしようかと……思ってた」
「一緒にいようと思っていて欲しかったんです! 俺と離れるかどうかじゃなくて、どうしたらこの生活を続けられるか考えて欲しかった! 俺のこと捕まえたくせに! 俺もそれでいいって言ってるのに!」
地面に粒が落ちるほど涙をぼたぼたと目から零しながら、よろめいてブランコのチェーンに掴まりずるずると腰を落としてその場にしゃがみこむ。出雲が僕にしたように抱きしめようかと思い差し伸べた手は、勢いよく振り上げられた出雲の手に払われた。
「先生とずっと一緒にいたくて頑張っていたのは、俺だけです……」
しゃがみこんだまま膝を抱えて小さくなり、声を上げて君が泣く。
手持ち無沙汰な僕はそんな姿を見ていられず、コートから取り出した煙草に火をつけた。
最初から最後まで僕たちが同じ方向を向くことはなかった。僕がまともなうちは君は大鳥を愛していたし、君が振り向いてくれた時には僕はおかしくなってしまった。
僕には誰かと一緒に生きる才能がない。人と時間を共有するのもなにも、初めてのことだった。失うことばかり考えてしまう日々は幸せだけど辛く、もう解放されると思うと安心した。
新聞配達のバイクがぽつりぽつりと走り出した頃、やっと出雲は顔を上げた。目の前にいるの僕になど目を向けず、ベンチに戻って買ったものをまとめて買い物袋を提げて歩き始める。出雲を駆け足で追い、並んで帰路を歩く。その横顔は全てを諦め疲れ切っていた。浮腫んで二重幅の広がった瞼が痛々しかった。
「もしも俺が二十歳になって再会できたら?」
帰宅してシーツだけ取り替え二人でベッドに入ると、それまでだんまりだった出雲はそんなことを聞いてきた。
興奮状態にあったが家に足を踏み入れるなりここ数日の寝不足が祟りお互いふらふらになっていた。もう今すぐにでも意識を手放しそうな真っ黒な頭の中に、その質問が落ちる。
二年後のことなど知らない。
淫行の時効は三年だから二年じゃ足りないなんて寝ぼけた頭でどうでもいいことを考える。違う、二年後というのは君が成人して、僕の籍にいれることを出雲は言っている。
頭が働かないな。二年後のことなど知らないが、君のことは変わらず好きだろうな。風俗に行く気すらおきず手元にある君の映像で抜いてるのではと思ったら情けなくて愚かしくて可笑しくなった。
そんな積もり積もった汚い恋心を抱えて再会してしまったら、君は僕の想いに潰され窒息死するのでは?
「もし、僕と再会するなら……よく、考えな? 二年待って君に会ってしまったら……もう逃がしてあげない」
ぼやけた意識で誤魔化すこともできずにストレートな言葉を吐いたら出雲はくすくすと笑った。
「声がふにゃふにゃですよ、先生」
「ねむい……」
「本当にそうならいいのに。その言葉を信じることができれば二年待てるのに。先生がそんなに男らしくなってるとは思えません」
また泣いてるの?
抱き寄せたいけれど腕は動かない。顔が見たいけれど瞼が開かない。意識も半分は夢の中だ。
抱き寄せた記憶はないのに胸の中に柔らかい君の身体が飛び込んでくる。
「自分がどれだけ愛されてるかわからない馬鹿な人。ここに俺の幸せがあるのに。先生……さようなら」
僕が軽々しく言ったさよならの言葉を君が言った時、悲しくて僕も涙が零れた。夢だか現実だかわからない。
自分が言われないとこの言葉がどれだけ悲しいかわからないなんて、僕は本当に馬鹿な男だった。
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