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番外編・二人の知らない二人の時間
まだ慣れない手つきで夕飯の支度をしていた幼い出雲は、一人きりの広い一軒家に響く雨音と電話のベルに脅えていた。
火を使うのは姉達が帰宅してからとの約束だったため、今できるのは野菜を切ったり下味をつけたりすることと、電子レンジで行える調理まで。普段ならばそれほど時間をとらないが、この日はいつもより時間をかけてその作業を行う。料理でもして気を紛らわせておかないと不安で仕方なくなるからだ。
鳴り止まない雨音だけでも心細くなるというのに、何度も何度も電話のベルが鳴っている。
出雲はこの電話のベルが恐ろしかった。
数ヶ月前に父が亡くなった日も雨の日に一人留守番をしていた。病院から何度も電話が来ていたが、家に一人でいる時は電話に出てはいけないと教えられていたため、彼は電話に出ることができなかった。
そのあと帰宅した姉に電話が何度も鳴っていたことを伝え、父の最後には間に合ったから良かったものの……もし、看取ることが叶わなかったのなら。それはきっと小さな胸に深い傷に与えることになっただろう。
しかしそれを回避していても、出雲は脅えていた。いつもなら既に帰宅しているはずの下の姉がまだ帰っていなかったからだ。
ゆっくりと作業をしていた夕飯の支度も全て終えてしまい、途端に胸がざわついて涙が出そうになる。しかし彼は誰も見ていないというのにそれを懸命に堪えていた。
出雲は森久保家に産まれた待望の男児であり、小さな頃から人に優しく強い心を持った立派な人になりなさいと、母親から多大な期待を背負って育てられた。年の離れた姉二人は比較的奔放に育てられているのに比べ、勉強も習い事も小さな頃からぎっちりとスケジュールを組まれ自由な時間はほとんどない。
同じ年の子供と遊ぶ機会も少なく、習い事ばかりして大人に囲まれているうちに敬語が板についてしまった彼を、亡くなった父はそれは可哀想に思っていた。ある日どうしても何かしてあげたくなった父は、息抜きだと習い事に行くふりをして出雲を遊びに連れて行く。しかし結局は習い事に行かなかったことが母にバレてしまい、父はひどくその事を咎められた。
近くのデパートで本を一冊購入してもらい二人でアイスクリームを食べるという囁かな時間を楽しんだ出雲は、自分は何も言われず連れ出してくれた父だけが怒られたことが悲しかった。そして父に対して出雲は自分のせいでごめんなさいと何度も謝り涙した。
父は自分が完璧に連れ出してやれなかった罪悪感と、不甲斐ない自分のために泣く息子に耐えきれず「男がそんなに泣くものではない」と口走ってしまう。元々厳しく育てられた出雲はその言葉をすんなりと受け入れ、泣くのは我慢するものと覚える。
そのせいで将来タカが外れて毎日涙腺が壊れたように涙を流すことになるが、それはまだ先の話だ。
しかしなんとも皮肉なもので父が亡くなったことで家の状況が変わり、特に母がCAに復帰したことをきっかけに出雲は一先ず習い事を辞めることになり自由の身となる。
出雲は“今さら”と思った。
小学校四年生になって今さら好きに時間を使っていいよと言われたところで、生真面目な彼は何をしていいかなどわかるはずがない。けれども持て余した時間を有効に使うために家事を始めてみたら姉たちがたくさん褒めてくれたので、習い事よりも家族にお礼を言われる方がずっと嬉しいと毎日小さな手が荒れてしまうほど頑張った。
そんな大好きな姉の一人が、時間になっても帰ってこない。
父のようにもう帰ってこなかったらどうしようと、随分飛躍した考えではあるが、幼い彼の中では雨と電話のベルという条件が合致しただけでもとても不安になっていた。それでもいじらしく言いつけを守り、涙を堪え続ける。
すると突然玄関のチャイムが鳴り、涙が引っ込むほどに驚いた。
恐る恐る玄関に近づくと、何やら揉めているみたいな話し声が聞こえ、その片方が姉だと気がついた出雲は覗き穴を確認し急いで扉を開けた。
出雲はすぐに姉の姿に安堵したが、次の瞬間には見たこともないほど背の高い男が隣にいることに気がついて、目をぱちくりさせて凝視する。
「大きい……」
思わず呟くと男は自分に気が付き、すぐにしゃがんで出雲に目を合わせた。当時まだ幼さの残る中性的な顔立ちをしていた加賀見の整った顔に見つめられ、出雲は目を離すことができず少しの間二人は見つめあった。
「君は……小さいね」
表情を変えぬままそれだけ加賀見も呟くと、しゃがんだまま姉を見上げた。
「この子いて……良かったね? 鍵忘れたかもって言われた時は、置いて帰ろうと思ったけど……」
「ほんとー、出雲いてよかったぁ。こんな調子悪いのに、寒空の下に置いて帰ろうとするとかありえないもーん」
「家に送る労力が……すでに、ありえない。ガソリン代、ほしいくらい」
「ひどすぎ! 先生絶対モテないでしょ。出雲はこんな男になっちゃだめだよぉ?」
元気そうに見えるがいつもより顔色の悪い末姉は玄関マットの上に座り込み、鍵を開けるためにサンダルをつっかけたままの出雲を後ろから抱きしめた。
姉二人は出雲が自分たちよりも厳しく期待を込められ育てられているのを理解しているつもりでいたため、スキンシップも多くやたらと甘やかした態度で接している。出雲はそれが少し恥ずかしかったが、姉たちを傷つけるよりは自分が我慢すればいいとそれを受け入れていた。
「あの、ありがとうございました」
二人の会話からなんとなく状況を察した出雲は幼い身体で深々とお辞儀した。
加賀見は何も言わずじっと出雲の顔を見て、ポケットからハンカチを取り出して目尻を抑えてきた。
泣いていたのがバレたと戸惑い、身を固くして冷や汗が滲むのを感じながら、出雲は涙を拭いてくれた目の前の男の顔が見れず俯く。しかし続けて彼はエプロンをぎゅっと握っていた出雲の手を取り軟膏のようなものまで塗り出したのだ。
「ちょっと! うちの弟に何してるのぉっ?」
「手……荒れてる」
「え、あ、ほんとだ……やだ、言ってよぉ、ハンドクリームくらい買うのに」
「ハンドクリーム、じゃなくて……皮膚科」
赤切れの目立つ小さな手に保湿剤を塗り終えた加賀見は、その手が荒れていたにもかかわらず、可愛い手、と出雲にしか聞こえない声で呟いた。
「電話……何度もかけて、ごめんね? 電話したのは、僕だから……大丈夫。一人だから……でなかったの?」
「はい、そうです。お母さんとお姉さんに、一人の時は電話に出ちゃいけませんと言われてます」
「そう……いい子だね」
自分の役目は終わったと言わんばかりに立ち上がって背を向けた男はやはり大きくて、優しくしてもらったことを嬉しく思いながらも少し怖かった。
その日の夜、雨はますます強くなり夜には雷鳴まで空に轟き、出雲は男のことなどすっかり忘れてしまった。何より彼は父を失った前後のことをあまり思い出せないでいる。幼い出雲に父の死はそれだけ辛い出来事だった。
人に無関心に生きてきた加賀見もすぐにこの出来事を忘れてしまった。小さな可愛い男の子がいたことよりも、無駄な労働をさせられた記憶が彼の中に残る。
しかし再会した後、あの時の少年が自分が喉から手が出そうなほどに欲している出雲だったのだと気づき、加賀見は必死で記憶を辿っている。それでも初めてハンカチで涙を拭いたのはあの日なのだと思い出せずにいる。
一方出雲は何も覚えていない。何も思い出さない。
涙に気がついてくれた背の高い男は、彼の記憶に残らなかった。
END
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