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君が僕をつくる(前編)※先生視点

 帰宅をして出迎えを終えたら出雲はさっさとキッチンに戻って行ってしまった。  今日は帰ったら一緒に湯船に浸かろうとお湯はりも頼んでおいたのに。面白くないので僕より大事な何かを見てやろうとついて行ってみれば、よくそんなもの家にあったなというほど大きな瓶に、千切りにしたキャベツを大量に詰めている最中だった。  そしてそんな意地悪い考えを吹き飛ばすくらい、キッチンの入口に立つ僕に満面の笑みを向けてその瓶を見せつけてきた。 「あ! 先生っ! これ、なんだと思います?」 「キャベツ……」 「キャベツなんですけど、違うんです。何ができると思いますか? ふふふ、きっと先生が喜ぶものです」  よほど嬉しいのか照れてる訳でもないのに頬が紅潮している。近づいて瓶に入れたキャベツをすりこぎでギュッギュッと押す出雲を背後から抱きしめ鼻をひくつかせるが、特に調味料の匂いがするわけでもない。 「何が……入ってるの?」 「塩です」 「塩……だけ?」 「はい!」  凄く元気よく返事をしているけれど……塩漬けキャベツ? がそんなにいいものとは思えない僕は微妙な顔をしてしまい、出雲はそれを見てふふんと得意気に笑った。 「つまんないのって思ったでしょ う?」 「いや……そこまでは」  キャベツを潰して、新しいキャベツを追加して、また潰す。その作業を三回ほどしたらボウルに山盛りになっていたキャベツは水分を抜かれ、あっという間に瓶の中へ全て収まってしまった。最後に外葉らしきものを被せるように中に入れ、出雲は瓶の蓋を閉める。 「これで一週間ほど発酵させます」 「光る……?」 「光りません! 酵母などの発酵です」 「何が……できるの?」 「まだわかりませんか? ザワークラウトです」  ザワークラウトと聞いて思わず“おお”と口が開いた。そんな僕の反応を見て、出雲はますます嬉しそうに歯を見せて悪戯っぽく笑う。  ザワークラウトとはドイツ料理でキャベツの漬物である。酸っぱい漬物なのでてっきり酢漬けにしているのかと思っていたが、瓶の中から酢の匂いはしなかった。あの酸っぱさは発酵してできあがるものなのかと目から鱗であった。何故僕がザワークラウトにここまで反応するかというと、僕の好きなドイツビールにはザワークラウトとソーセージの組み合わせが定番であり最高なのだ。 「一週間……待つの? 待てない……」 「発酵しないと美味しくないので、少なくとも四日は食べられません」 「四日かぁ……」 「でしたら待ってる間に市販品を購入されてみては?」 「ううん……待つ。出雲の作ったのがいい」  前に瓶詰めの市販品を購入したがイマイチでそれから別のを購入することもなく、ザワークラウトは外で飲む時に食べるものになっていた。もちろん今また市販品を試してみるより出雲が作ってくれたものが食べたい。 「僕のために……作ってくれたの?」 「それはもちろん。なので、とっても喜んでいただけたようで嬉しいです。美味しくできるといいのですが」 「絶対、美味しい。出雲は……本当に、可愛いね。いい子いい子……」  抱きついたまま頭を撫でてあげたらこちらを見上げてきたので軽いキスを贈る。明日仕事帰りにドイツビールを買いに行こう。まだ冷蔵庫にもストックがあるけれど、それは今日飲んでしまいたい気分だ。  僕の身体を気遣ったご飯を考えて用意してくれるだけでも嬉しいのに、お酒に合わせたおつまみまで作ってくれるなんて。どうして自分のことよりも僕のことばかりこの子は考えてくれるのだろう。心の底から愛おしい。 「ね……お風呂、入ろ? 今日は一緒に入る、約束……」 「はい、覚えてます。お湯は用意してあるので入りましょう。お背中お流ししますね」  お背中流すどころか、一緒に入れば出雲は髪の毛から足の先まで洗ってくれる。至れり尽くせり。僕はなんて幸せ者なんだろう。 「今日は……お風呂でビール、飲んでいい?」 「ええ?身体に良くないんですよ? 危険だから駄目です」 「だめ? 一本だけ」  耳元でお伺いを立て、下腹部のあたりをそっと撫でさする。すると出雲がきゅっと身を縮めるのが背中越しに伝わった。君はなんでも僕にしてくれるから、せめてその身体は労り可愛がってあげないと。 「出雲……?」 「せんせ、そこだめ……」 「そこってどこ?」 「おなか……」  小さな小さな声で恥ずかしそうに漏らすのが可愛い。真っ赤な耳からは熱気まで感じる。 「もっと違うとこ……撫でる?」 「や……お風呂……早く入りましょう? それどころじゃなくなっちゃう……」 「うん」  出雲のほくろにキスをしてから離れ、冷蔵庫からしまってあった瓶ビールを取り出し栓を開ける。もう、と怒った声が聞こえたが知らんぷりしておく。そんなことより出雲の丁寧な言葉遣いが前より砕けてきた気がして、距離が縮まったようで嬉しい。  出雲が家に来る前は湯船を張る習慣はなく、シャワーしか使っていなかった。ここに住みはじめて十年以上になるが、風呂に浸かった記憶はない。スナックを経営している母親が客からもらった入浴剤を度々送り付けられていたが(あの人も風呂に浸かる習慣がない)、ランドリーラックの一番下の引き出しの養分になるだけ。捨ててしまえば良かったのかもしれないが、なんとなくそれはしなかった。  けれど出雲が来てからは毎日のようにお風呂に浸かるようになった。でも出雲が一緒じゃないと嫌だ。一人ではやっぱり入る気がしない。そして出雲がランドリーラックの養分を何かしら取り出して使ってくれるので、あの母親の贈り物に今では感謝している。  二人でシャワーを浴びて湯船に浸かる時、僕から浴槽に入る。先に位置取りして、僕の足の間に入り寄りかかる形で出雲は入浴するのだ。おそらく浴槽は広い方だが、大人の男二人で入るとさすがに窮屈だ。でも僕はその窮屈さを気に入っている。  浴槽の縁に置いたビールと入浴剤の入った箱。それぞれ必要なものを手に取り、お互い何をしているのか様子を伺う。 「今日のビールはどんなものですか?」 「ドイツビール」 「え! なんで今飲んじゃうんですか。とっておいてくださいよ」 「明日、また買ってくる。買う物……ある?」 「何かありましたかねぇ……明日までにメモしておきます」  後ろから見ていても頬ごしに尖った唇が少しだけ見える。ちょっと怒ってる。可愛い。  そんな出雲が手にしている入浴剤は珍しく箱入りのものだった。一見するとチョコレートでも入っていそうな細長い茶色の箱を開けると、中にはピンクや赤の花がたくさん入っていた。 「なにそれ……」 「薔薇の入浴剤みたいです。花びらをちぎって浮かばせるって書いてありました」 「なにそれ……」  説明されてもよくわからないが、どうぞと渡されたので花の形のそれを一つ受け取る。いや、どうぞと言われても。  どうすればいいのかと眺めているうちに出雲が一枚一枚丁寧に、花占いでもしているかのように花びらをちぎってお湯に浮かべていく。やや俯き加減のうなじが美しく、どんな顔をしてちぎっているのだろうと想像した。 「薔薇のいい香りがしますね」 「うん? う……ん……?」 「全然ピンときてないじゃないですか、もう」  ふふ、と笑うと肩が少し上がる。そんな些細な動きだけで僕は感動してしまう。薔薇の香りを探っているだけで、出雲は笑顔になってくれる。僅かな動きを見せてくれる。 「先生もちぎってくださいよ。一人だと大変です」  全部の花をちぎるところを見たいくらいだけれど、何をやるにも真剣な出雲が早く落ち着けるようにと手伝う気持で花びらを一枚ちぎる。変なちぎり方をしてしまったら嫌だなと思ったが、ちゃんと一枚ずつ綺麗に剥がれるようになっているみたいだ。 「出雲は僕が……すき。きらい。すき。きらい。すき……」 「おや、花占いですか。先生ったら可愛いですね」 「うん……」  しかし花びらは残り三枚となり手が止まる。このままだと……良くない結果になってしまう。最初に花びらの数を数えておけばよかった。それでは占いにならないけれど。  出雲は手の動きが止まったのに気が付き、肩越しに僕の持つ花を見た。そしてすぐに状況を察してくすりと笑うと、自分の持っていた花から花びらを一枚ちぎり、残念な結果になるはずの花にそっと付け足した。落ちないように仕上げに根元をぎゅっと押し付ける。 「ああ、少し根元が潰れてしまいました。でもこれで大丈夫です」  頷いて花占いの続きをはじめる。 「きらい、すき、きらい……すき。出雲は僕が……好きだって」 「当たり前です。先生のこと大好きなんですから」 「うん……ありがとう」  濡れた首筋に顔を埋めてぎゅうっと抱きしめると、出雲の優しい笑い声が聞こえてくる。  確かにいい香りがする。これが薔薇の香り? よくわからない。今度花屋にでも行ってみようかな。君に花を贈ればきっと綺麗に飾ってくれる。 「良質な入浴剤がたくさん送られているようですが、他にも何かお母さんから送られてくるんですか?」 「うん? なんだろう、食べ物……とか。食器とか、調理器具とか」 「なるほど。お台所の不思議が解消されました」 「コーヒーメーカーももらった」 「ホットサンドメーカーとミキサーもでしょう?」 「そう」  とくに事前に連絡もなく送られてくる品達。いらないのなら捨ててしまえばいいのにわざわざ僕に送り付けてくる。嫌がらせなのかと思ったが、二回同じものがきたことはない。たまたまかもしれないし、実は良かれと思ってプレゼントしているのかもしれない。真実を聞こうとも思わないので謎のまま終わるだろう。 「先生に似ていらっしゃるならお綺麗でしょうし、きっとお客様に大人気なのでしょうね」 「そう……なんだろうね。とりあえず、お店は繁盛してる……のかな」 「おうちでは……どんな方でした? あまりお話をされてないですか?」  どんな方。  自分の記憶の中にあるあの人を思い浮かべる。  香水と煙草の匂い。電話で誰かと話す声。連れてきた男性と話す声。  その姿形よりも壁や扉越しに感じる気配……彼女のぼんやりとした輪郭が思い浮かぶ。よくよく記憶を掘り返してやっと、黒髪のロングヘアや少しも笑うことのない瞳を思い出すことができた。 「話……話……なにを、話しただろう。大学はここ、とか、就職はここ、みたいな……指示?」 「指示、ですか」 「用があれば、指示される」 「何か……先生についてのお話は……? 学校はどうかとか、友達はいるかとか」  刈り上げてある襟足が少し伸びてきたなと出雲の髪をいじりながら、そんな話をしたことがあるだろうかと考えた。母の恋人に聞かれたことならある。けれど当の本人に聞かれたことはない。

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