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今こそ別れめ いざさらば①

 もうあの部屋から出ないことを願っていたのに。  別れが決まればそれはあっという間だった。  ささやかな初デートから帰宅したのが朝方。先生はそのまま朝日が出るのを待たず、再び暗くなるまでよく眠っていた。思えばここ数日、先生ははずっと寝不足続きだったと思う。夜遅くまでじっくりと身体を可愛がって下さっていたのに、毎朝七時半頃には家を出ていたのだ。俺が家で待っている間もずっと先生はお仕事をされていたのだから、疲れが溜まっていたのだろう。  俺がいなくなったほうが、先生のためになるのかな。  元々静かな暮らしを好んでいる人にとってずっと他人と過ごし、さらにそれによって心が乱される日々というのは、大変に辛いものだったのではないだろうか。解放されるのは俺じゃなくて先生なのかもしれない。そんなことを考えていたら先生が起きてきて、いつものように寝起きの煙草を咥えながら、家の近くまで送ると静かに告げた。  そこからはもう、本当に考える隙もないほどあっという間の出来事で。久しぶりに制服に袖を通し、会話もなく車に乗っていたらすぐに自宅の最寄り駅について降ろされた。またもしも、学校で会えたらね。そんなあやふやな言葉だけ残して返事も待たずに先生の車は走り去ってしまった。  登校日には先生は保健室にいるだろうし、卒業式には出席するだろう。けれども自分は会いに行っていいのだろうか。会ってくれるのだろうか。そもそももう話はついてしまったのに、会うことになんの意味があるのか。  駅前の喧騒が、自宅へ向かって歩き始めるとだんだんと静かになっていく。店がなくなり住宅街に入り道が暗くなっていく。  会うことにもう意味などなくても、先生のお近くに少しでも長くいたいと思うのはいけないことだろうか。話すことなど何もなくてもいいから、ただ先生がそこにいるということを感じるために、お会いしてもいいだろうか。控えめなフリをしてそんなワガママで迷惑なことばかり考えてしまう。  自宅が近くなってくると、自然と歩みが遅くなった。帰りたくない、帰ってしまえばきっともう先生との生活には戻れない。母の休日ではなかったはずだが、姉二人は在宅しているだろう。なんと詰め寄られるだろう、今後外泊や下手したら外出に関しても厳しくなるかもしれない。先生に捨てられた今、いらない心配だと言うのはわかっているけれど。  自宅の玄関前までついても、まだ踵を返したくて仕方なかった。振り返って駅に向かって走って、電車に乗って、先生のご自宅まで自力で行けばいい。どこへでも自由に行けるなら先生のところへ行きたい。  でもそんな勇気はなくて。  先生が目の前にいれば、たくさんワガママが言えるのに。甘えて、おねだりして、思うままに過ごすことができるのに。先生の隣こそが俺が自由でいられる場所なのに。  一人になった途端、また動けなくなる。先生に迷惑がかかり、姉たちが心配しているのだから自分が我慢すればいい、そんな自制心が働いて逃れられなくなる。  鍵を開けて玄関の扉を開けるとルームフレグランスの香りがした。それは自分の置いたものではなく、いない間に取り替えられたであろう嗅ぎなれない匂いだった。いつも花の香りのものを好んで下駄箱の棚に設置していたが、今ではフルーツの甘い香りが玄関に漂っている。  家事全般を請け負っていた自分が暫く家を空けていたため、玄関を開けるまで家の状態が気掛かりであったが、その香りを受けてそれが杞憂だったことを悟る。先生の家にいる時ふと家族のことを思い出す度に、忙しい姉たちに家事まで手が回るだろうかと心配していたし、帰宅するのが嫌だと思いながらも帰ったらまず掃除や洗濯をしなければと考えていた。  しかしなんてことない、自分がいなくてもこの家はきちんと回っている。掃除もできているようだし、洗濯物もたまっていないし、なにも問題ない。先生の家は俺がいないとあっという間に散らかってしまうだろうに。  リビングまで出てみれば、ちょうど姉二人揃って夕食をとっているところだった。食卓には米と味噌汁以外は市販惣菜が並べられており、少しだけ安心した。これで食事まできちんと揃えられていたら自分のここでの存在意義を見失うところだった。  本当に?  本当に見失っていない?  当たり前だ。父を失ってから八年間ずっと、忙しく働く家族の役に立ちたくてやってきたのだから。我慢なんかしてない、自分が好きでやってきたのだから。自分が本当に家庭内で必要かどうかとかそういう問題ではないのだから。 「出雲! 戻ってきたの?!」  リビングの扉を開けたまま立ち尽くす俺に視線を向けた二人は、驚いて目を見開いたまま暫く絶句していたが、しばらくして長姉の野菊が立ち上がり怖い顔をして歩み寄ってきた。元々キツい顔立ちの野菊さんは顔を顰めてるんだか俺を睨んでるんだかわからないが、口をきつく結んで何か言いたいのを我慢しているかのようだった。それに反して末姉の小梅さんはいつもののんびりとした口調でおかえりぃ、と軽く手を振ってそのまま食事を再開した。 「帰ってくるなら連絡くらいしてよ、びっくりしたでしょ。もう大丈夫なの? ちゃんと帰ってきたのよね?」  頷きながらも、自分のこころがまだ少しもここに帰ってきていないことを感じていた。 「心配かけました。ごめんなさい……」 「そうね……でも帰ってきてくれてとりあえず安心した。ご飯は食べたの? お風呂も沸いてるし、その後に少し話を……」  謝罪を受け、深いため息とともに力を抜いた野菊さんは、内心複雑そうではあったがなんとか微笑みを作って気遣ってくれた。しかし、労わるように俺の肩を撫でた瞬間、再び眉間に皺が寄り怪訝な顔をして俺を見上げる。 「出雲……隼人くんのところにいたのよね?」 「はい、隼人が一人暮らしをしているアパートに……」 「出雲、あんた煙草臭いよ? どういうこと……隼人くん、煙草なんか吸ってないよね?」  一歩踏み出して詰め寄ってくる姉に後退りしながら、血の気が引いていくのを感じた。すぐに踵が廊下へ続く扉にぶつかり、逃げ場はなくなる。  芸能活動をしている隼人に罪を着せることはできないし、自分が吸っていることにするなんていうのも論外だった。 「電車で……隣に座っていた方が、喫煙者だったみたいです。臭いが移ってしまったのでしょう」 「なら、どうしてすぐにそう答えないの……念の為、鞄の中を確認させて」 「嫌ですよ、やめてください!」  肩にかけていたスクールバッグを掴もうとする手を振り払い、このまま二階の自室に逃げてしまおうと背を向けて扉を開けるが、やはりそう簡単に逃がしてはくれずきつく腕を掴まれた。しかし振り払えば呆気なくその手は外れ、勢い余って前のめりになりながら後ろを振り返れば野菊は唇を噛み締めて涙を流していた。 「野菊さん……」  名を呼べば、ハッとして涙を拭い、見慣れた勝気な表情に戻るがまだその瞳は濡れている。 「出雲、どうしちゃったのよ……煙草吸ってるの? それとも、隼人くんの家にいたんじゃないの? 」 「吸ってませんよ……隼人の家にいました。高校ももう卒業目前で……少し、疲れが出てしまったんです。それだけです」 「本当に? 本当にそれだけなの? ならどうして出ていく前よりやつれてるのよ……?」  姉は俺の言うことなどあからさまに信用していなかった。顎を引いて上目遣いでこちらの様子を窺う、よく手入れされた睫毛に縁取られたその眼が怖くて顔を逸らす。 「寝不足なだけです。別に何もないんです。俺も煙草臭いのは嫌ですし、シャワー浴びてきますね」 「なら、鞄の中だけ確認させて。少しくらい安心させてくれてもいいでしょう?」 「それは……」  鞄の中には使いかけのコンドームが一箱と先生の家から一枚だけこっそり持ってきたTシャツが入っている。  Tシャツは隼人の家で着ていたものが荷物に混じってしまったとでもなんとでも言えるが、この状況でコンドームが見つかれば姉が困惑するだろうし、そもそも家族に性的な部分を見られたくない。スクールバッグにまで入れて持ち歩いていると知れたらどう思われるか……。  しかしどう思われるかよく考え、俺はバッグをそっと床に置いた。 「そこまで言うなら、どうぞ」  突然あっさりと荷物を引き渡した俺に姉は戸惑いを見せたが、ごめんねと一言詫びたあとバッグの前にしゃがんで中を確認し始めた。  まず、件のTシャツを広げた姉は思いっきり首を傾げる。 「なにこれ、だっさいしでっか! 出雲のじゃないでしょ」 「隼人のです」 「隼人くんこんな妙ちくりんなTシャツ着るんだ……」  雪男がごろ寝しているゆるいデザインのTシャツを見ながら心の中で隼人に謝罪した。初めの頃は自分も姉と同じ反応をしていたが、今になってしまえば先生のよくわからない生き物とか食べ物が描かれたTシャツが可愛くて仕方ないから不思議だ。もっとくすねてくれば良かったな。  他には筆記具、ファイル、財布、イヤフォン……大したものはない。そしてとうとう、バッグからコンドームの箱を掴んだ姉の手が出てきた。 「えっ」  野菊さんの戸惑いの声と同時に食事を終えた小梅さんがやってきて、その手に持っているものを奪う。 「えー! 出雲ったら彼女いたのぉ?」  興味津々な様子で目を輝かせる小梅さんを見て、やはりそういう反応になるんだよなと苦笑いで応えた。姉たちはただ気まずくて俺がこんな反応をしていると思うのだろう。  この年齢で彼女と避妊して性行為してたってそこまで咎められることじゃない。冷静に考えればこの流れになると悟ったので、スクールバッグを差し出した。そしてその通りになった。これが普通なのだろう。  性的指向を明かしてもいいとまで思っていたのに、また嘘が一つ増えてしまった。 「え、でもコンドームって……」 「いいじゃなぁい、ちゃんと避妊してるんだから。彼女いて持ってない方が問題でしょぉ?」 「それは……確かにそう、よね……でも学校に持っていっちゃだめでしょ」  二人の会話を軽く耳に流しながら、バッグの中身が全て出されたのを見て、それらをまた中に戻していく。小梅さんのおかげでなんとなく野菊さんの緊張も和らいだようで安心した。  そして俺は彼女達と自分の間に線を引く。

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