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今こそ別れめ いざさらば②

 家族の性的なことに気まずさ漂う空気を残し、荷物をまとめて部屋から出ようとすれば再び野菊さんに引き止められた。背中越しに見下ろすと、なんとも言えない顔をして目を逸らされる。 「彼女の家にいたわけじゃないわよね……?」 「まさか。違いますよ」  姉がほっと息を吐いて視線を合わせてきたのがなぜだがとても不愉快で、今度はこちらから視線を外して背を向けた。もう話したくないという本気の意思表示がわからないほど空気の読めない人じゃない。引き止めたいという気配を受けながら、廊下に出た。  これから自分は腫れ物に触れるように扱われるのだろうか。家事も無理しなくていいなんて言われながら、自分の立ち位置など見えなくなって。この場所での自分の役割がわからなくなって。前提として家族の期待に応えられない俺はここでは不要な人間なのだと、でもそれをひた隠しにしながら騙し騙し生きていくのだろうか。  自室に入るなり肩に掛けていたスクールバッグがずるずると滑っていき、どさりと大きな音と共に落ちて床を揺らした。その振動にすら耐えきれず、膝が落ちてその場に崩れ座り込む。髪がふわりと空気に誘われ先生の煙草の残り香を感じたが、これももうシャワーで流さなければいけない。たった三週間の先生の痕跡などすぐに洗い流せてしまうのだ。  明かされたばかりのスクールバッグを開けて先生のTシャツを膝の上に広げて子供のように体育座りをすると、先生の家の香り埋もれることができた。これもすぐに自分の匂いに変わる。  なんで。なんで。どうして俺はここにいるんだろう。  バッグの中で先生の連絡先が消されたスマートフォンが光っているのが横目にちらつく。膝に頭をつけたまま顔だけ横を向いて手を伸ばし、横着して拾い上げもせずにバッグにいれたまま指紋認証センサーに指を当て通知を確認しようとしたら開かなかった。あ、と思ってパスワードを入力したがやはりそちらもだめだった。先生自分の連絡先は消したのにロックを解除するのは忘れてしまったんだ。  バッグからスマートフォンを取り出し、ふふっと声を漏らして笑いながら指を何度も押し当てる。その度にエラーになって、何度も失敗しているせいで数十秒のロックが掛かってしまった。先生の指紋じゃなきゃ開かないスマートフォンの画面が消え、真っ黒な液晶に自分の顔が映る。頬の緩んだ顔に、こんなことに安心を覚える自分に嬉しくなる。先生に会いに行かないと。とりあえずの口実ができた。もう誰からの連絡もいらないけれど、ロックしたままでもいいけれど、解除してもらわないと。  ほんの少しだけ気持ちが落ち着いて今のうちにシャワーを浴びようと立ち上がろうとした時、コンコンッと子気味よく扉をノックされた。一瞬せっかく上がった気持ちが陰りそうになるが、このノック音は小梅さんだと思い肩の力を抜いて返事をする。 「なんですか?」 「シャワーこれからでしょー? シャワーの前に髪の毛切らなぁい?」  確かに月に一度切ってもらっていた(姉が気になったらさらにもっと早いスパンで)髪の毛はそろそろ切り時だった。結局先生に切ってもらうことは一度もなかった後頭部にかかる髪を撫で、扉を開ける。ケープやシザーを手に微笑む小梅さんに頷いて、いつものように部屋の前の廊下で散髪してもらうことにした。  これで伸びた髪の毛も元通り……その後シャワーを浴びてぴかぴかにして……表面上はいつもの俺に戻るのだろう。 「リフレッシュできたぁ? 野菊は心配してたけど、いいじゃないねぇ、連絡くれてたんだし」  シャキンシャキンと金属の擦れる鋭い音と姉の間延びした声が重なって変な感じだ。先生と行為中にした電話のせいで様子のおかしい俺に野菊さんは余計に心配したのかもしれないと思うと、何も答えず苦笑いで返す他なかった。 「あ」 「えっ?」  散髪中の“あ”の一言には肝が冷える。 「なんですか、切りすぎました?」 「ううん。こんなとこにキスマーク」  するりと姉の柔らかな指先が耳たぶの後ろ、少し影になるあたりを滑ってぞくりとした。肩をすくめる弟を見て姉はきゃっきゃっと笑う。 「やだぁー敏感! 出雲ったらー!」 「ちょっとあの、野菊に聞こえたら困ります……! 声は小さめで……」 「困るようなことなんだぁ?」 「野菊は、色々と気にしますから……目立ちますか?」  平気だよと優しい声音が耳に届く。そうしてある程度切り終えたのか、長い部分の髪をブロッキングされ、襟足をバリカンで剃り始めた。独特の振動音とともに肌がビリビリとしてくすぐったい。 「あんまり気にしなくていいんだからねぇ?」 「別に……なにも」 「そうかなぁ。私は出雲が好きにしたらいいと思ってるよ。少しくらいグレちゃったっていいんだから。でも知らないうちにどっか行っちゃうのはやだなぁって」  バリカンの刃を変え、三ミリで仕上げた襟足の角だけをゼロミリで処理をする。 「はい、できた。やっぱり出雲はソフトマッシュが可愛いね」  いつも通り、仕上げに両肩に手を置かれる。しかしなかなか手が離れていかず、上を向こうとしたらそれを阻止するように頭を撫でられた。髪の流れにそって、手が滑っていく。 「でもね、いつでも出雲の好きな髪型にしてもいいんだよぉ?」  いつも呑気な姉の気遣いに何か返事をしたいと思ったが言葉に詰まり、そうしている間にケープを剥がされ片付けはするからシャワー浴びてきていいよと背を押されてしまった。  プロに無償で切ってもらっている上に片付けまでさせるなんてと手を出そうとするが、いいのいいのと押し切られてしまう。 「小梅さん」 「なぁにー?」 「ありがとうございます」 「いいえー」  頭を下げて浴室に向かう。首をひねって洗面台の鏡を覗いてみても、耳の後ろ側は見えない。手鏡と合わせ鏡をしてやっと、小さな赤色が確認できた。  先生の好きな、ほくろがある耳の後方。ほくろを舐めて、ここに唇をあてた道筋を想像してそっと耳を片手で覆った。  三回ほどあった登校日に出席しなかったため、高校の最寄り駅から多くの同級生や下級生に声をかけられ学校に着く頃には気疲れしてくたくたになっていた。卒業までの辛抱ならばいいけれど、これが大学に上がっても続くようならうんざりするなとため息をつく。  前々から愛想良く過ごしながらも水面下で感じていた感情が先生の家を出てから顕著に出ており、あそこにいる間に自分は随分ワガママになったと痛感する。しかしそれを表に出せるほど人格が変わるわけもなく、ワガママになった感情はただストレスとして蓄積されていく。 「いずもん!」  そのあだ名に反応するのは嫌だったが条件反射的に振り返ってしまい、何事もなかったかのような顔でそこに立つ男に腹が立った。肩からズレ落ちそうになったスクールバッグを肩にかけ直しながら、自分でも笑顔が崩れ眉根が寄るのを感じる。 「いずもん、大丈夫か? ずっと来てなかったよな」 「大丈夫です。少し風邪が長引いただけですよ」  声色はいつも通り感じ良く出せているはずなのに、表情がそれに伴わない。上手く笑えない。  山下はそんな俺を見て、冬なのに相変わらず日に焼けた顔を曇らせる。あだ名でなく、いずも、と名前を呼びながら優しげに手首を掴まれ、素早く腕を引いてその手を払ってしまった。それに気を悪くしたのか山下は先程までの同情を含んだような厭らしい目線から一転、あからさまに顔を顰めた。舌打ちでもしそうな勢いだ。きっと彼のイメージの中の自分はこんな反応をしないのだろうな。 「先生の話したいんだけど」 「なんですか、話なんて別に……」 「ここで話していいの?」  ちらりと横目で周囲を伺う彼の問いに、わざわざ話すことなんてもう何もないのに首を横に振るしかなかった。仕方なくいつもハヤトとの逢瀬に使っていた屋上へ向かう階段へ連れて行く。  暗く冷たい。シンと肌に空気が染みる。  階段を登り終え、屋上へ出るための重たい扉の前で向かい合って立てば、この人はまたすぐに頬に手を伸ばしてきて気味が悪かった。 「触らないでください」 「ごめんな、痩せた気がして……本当に風邪引いてたの?」 「それよりも先生の話ってなんですか」  前々からうっすらと感じていた。山下は俺の事を自分より下に見ているというか……悪気はないのかもしれないが、庇護対象のように扱ってくる。友人と話していてもちょっと過ぎた冗談を俺の耳に入れようとしなかったり、周囲の友人に対して注意をしたり。  何様のつもりなんだろう。すぐに容易く触れてくるのもその延長なのだろう。気分が悪い。  そんな自分に対する扱いに気付いていたからこそ、じっと彼を見据えた。笑顔はもう見せなくてもいい。  山下はぐっと息を飲み、瞬きを何度かした後に口を開く。 「いずもん、先生の家に住んでんの?」  理事長以外には知られていないはずの事実に心臓がどきりとした。しかしそれを悟られないように冷静に言葉を返す。 「住んでるって……なんでそう、思ったんですか」 「先生が持ってた弁当、いずもんが作ったんだろ。それなのに別れるみたいなこと先生が言ってたから、どうなってんのかと気になってたんだ。いずもん来ねぇしさ」 「なんで、そんな話……いつ……」 「いつだろ……登校日にいずもんいなくて心配で話に行ったんだ」  いつから。  いつから決まっていたんだろう、先生の中で俺ともう別れるって。はじめからなのだろうか。こんな、先生が俺に酷いことするキッカケを作ったような人に、そんな話。結果的に巻き込んでしまい性行為にまで及んでしまったため考えないようにしていたが、山下がはじめから俺に何もしなければ俺と先生はこんなことにならなかったかもしれないのに。  こんなに好きなのに先生の気持ちがわからないのと、されたことの悔しさに嗚咽を漏らし涙が溢れた。全然感情がコントロールできない。この人の前で泣きたくないのに。  出雲、とまた名を呼ばれる。  白々しい。いつもみたいに馬鹿みたいなあだ名で呼べばいいのに。腕を引かれて抱きしめようとしてくるので、気持ちが悪くて胸を押し返す。 「出雲、泣くなよあんな奴のために……! 別れた方がいいに決まってる!」 「何が……あなたに何がわかるんですか?!」 「先生が最低なやつだってことだけはわかるよ! まともなやつなら目の前で他の男にヤラセたりしないだろ!」 「誰のせいだと……! 先生は最低なやつじゃありません!」  先生、俺がいないとダメなのに俺のために離れていった。  誰も愛せないくせに。俺しか愛せないくせに。俺しか見てないくせに。  俺しか先生のこと幸せにできないって知ってるくせに。  あの部屋であったことは俺と先生しか知らない。誰にもわからない。  例えこれが人から避難されることであっても、先生がしたことが犯罪だとしても、あの部屋で俺と先生がど二人でどんな顔をしてどんな会話をして笑いあって、寄り添って、甘えあっていたかなんて誰も知るわけがない。誰もにもわからない。  先生は俺が幸せにしないといけないのに。  

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