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第1話 怖い先輩
地方公務員に就職して二年がたつ。
業務にも慣れてきているところだった。
吉田が就職したのは「梅沢市役所」だ。
入庁して、本庁舎での業務を夢みていたはずなのに、最初に配属されたのは外部施設の音楽ホールであった。
先輩たちの話によると、このホールは「流刑地」と呼ばれており、一度配置されてしまうと、余程のことがない限り、本庁に戻ることが出来ないというのだ。
――流刑地に配属させられる、だなんて。おれ、そんなに成績が悪かったのだろうか。
後々、教えてもらったのは、「英語が得意」という条件があると、配属されるということだった。
梅沢市の音楽ホールは、海外アーティストも数多く利用する。
そのため、スタッフが英語を話せるということは必須条件であったのだった。
とはいえ、やはり憧れるのは本庁での業務だ。
時々、関わる本庁職員たちは、みな一様に出来る人間に見受けられた。
そう。
本庁職員たちは、吉田にとったら憧れの的であるには違いなかったのだ。
「吉田。お前の発注したチラシ届いたぞ~」
先輩である星野の声に、はっとして顔を上げた。
それは、毎月一回発行のホール催しのお知らせチラシだった。
A4裏表で一枚。
カラー用紙に、白黒一色刷りだ。
ホールに置くのはもちろん、市が運営する関連施設から、市内外にある文化施設等に配布されるため、その数は膨大だ。
茶色の紙でくくられているチラシたちを眺めては、吉田はわくわくする気持ちを抑えきれずにいた。
今回のチラシ。
二年目にして、吉田が初めて責任をもって任された仕事だった。
星野は、だらしのないよれよれのワイシャツを着崩し、顎の無精ひげを撫でながら、にやにやとしていた。
「よかったじゃねーか。中身確認しておけよ」
「はい」
サンプルの一枚を取り上げて、それから原案と突き合わせる。
間違いはないようだ。
――今日の遅番は最悪だけど、今日は最高いい一日になりそう!
「間違いないなら、どれ。仕分け作業手伝ってやるからよ」
「ありがとうございます!」
吉田は星野と一緒にチラシの仕分け作業を行った。
***
定時過ぎ。
吉田は、星野に手伝ってもらい、チラシの仕分けも終わって、ほっとしていた。
しかし、よく通るバリトンの声に現実に引き戻された。
「吉田。この書類、このファイルに綴じるなと言っているはずだ」
はったとして顔を上げると、銀縁眼鏡の神経質そうな男が向かい側から吉田を見据えていた。
「安齋さん、すみませんでした」
安齋は不機嫌そうにファイルを豪快にテーブルに叩きつけた。
吉田は首を竦めて躰を硬くする。
「お前な。なんの書類だかも聞かずに、そのとりあえず謝っておけみたいな態度をとるのはやめろ」
「――すみませんでした」
――だって、怖いんだもん。
吉田はびくびくしながらも、安齋のことを直視できずにいた。
安齋裕仁 ――。
音楽ホールの職員であり、吉田の先輩でもある。
他の職員たちからは、「仕事が出来る奴」と高評価を受けている彼だが、なにせ表裏が激しいのだ。
下っ端である吉田には、威圧的で不愛想。
優しさのかけらもない態度を見せる。
――みんなは知らないんだ。安齋さんの本当の姿を。
おっちょこちょいで、少し抜けている吉田からしたら、完璧主義で、ミス一つ許さない彼は恐ろしい存在としか言いようがなかった。
口を開けば、罵詈雑言。
口を閉ざしていても、その冷たい視線に射すくめられると、肝が冷える思いだった。
安齋以外の職員は、至って友好的だ。
親父ギャグを言う最年長職員の氏家。
皮肉屋だが、なにかと面倒をみてくれる高田。
だらしのない恰好で口が悪いが、面倒みのいい星野。
食べ物に興味がある肥満体型だが、優しいお兄さんタイプの尾形。
スマートで知的、紳士な課長、水野谷。
吉田にとったら、みんなが素晴らしき仲間なのだ――この安齋という男を除いては、だ。
「本当にお前はクズだな。口を開けば『すみませんでした』か」
「ですが、じゃあなんて……」
「そんなものは自分の頭で考えろよ」
安齋は腕を組んでから、椅子にのけぞる。
それとは比例して、吉田は前かがみになり、小さく縮こまった。
「お前さ。仕事一つくらいできたからって、いい気になるなよ」
「……いい気になんて……」
「本当に単純だもんな。お前。浮ついている気持ちが滲み出ているぞ」
安齋のちくりちくりとした言葉の棘に、心が折れそうになった時。
カウンターにふくよかな中年女性が現れた。
吉田は救いの神! とばかりに腰を上げるが、彼女は菩薩の顔ではない。
仁王像のような表情だった。
「これ! 一体、なんなのよ! このチラシの私の名前が間違っているじゃないの!」
彼女は先ほど、吉田が出来上がって喜んでいた催しを知らせるチラシだった。
「え、失礼いたします!」
吉田は慌ててチラシを受け取る。
チラシは、表面に目玉イベントが紹介されており、裏面は表スタイルの日程表が印刷されていた。
彼女はその一つを指さしたのだった。
「私の名前は森なの。おわかり? 森よ、森。それがなによ。林になっているじゃないの!」
確かに彼女が指示したところには、『林まきピアノソロ・リサイタル』と書かれている。
――嘘だろ? だって。課長にも確認してもらったし。星野さんにだって……。
吉田は目の前が真っ白になった。
せっかくできたチラシだ。
まさかのミス?
いつもちょっとしたミスの多い自分だ。
またやってしまった、という思いに支配されると、思考が停止した。
「ちょっと、黙ってないでなんとか言いなさいよ!」
目の前の女性は顔を真っ赤にして怒っている。
言葉に詰まって、少しも動けなかった。
しかし――。
ふと肩に冷たいものが触れた。
それは安齋の大きな手。
骨ばっていて、細い、神経質な彼そのものみたいな手だ。
その大きな手で肩を掴まれたかと思うと、ぐっと一気に後ろに躰が持っていかれる。
吉田を退けさせた安齋は、林女史の目の前に立った。
その後ろ姿は優雅。
吉田からは見て取れないが、きっと彼特有の素晴らしい営業スマイルを浮かべているに違いないのだ。
案の定、かっかとしていた小林女史は、別の意味で顔を赤らめて、口元を押さえた。
まるで恥じらう乙女のようだった――。
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