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第2話 期待とは裏切られるためにある
「失礼いたします。この度は、大変不愉快な思いをさせてしまいました。申し訳ありませんでした」
安齋は軽く謝罪の言葉を述べてから、頭を下げた。
小林女史は「あ、あら。やだ。い、いいのよ。いいえ、いいえ。よくないわ」と何度も言葉を言い直している。
「私共は、こちらのお申込みいただきました書類を確認しながら、チラシを作成しております。お手数ですが、ご確認いただけますでしょうか」
「え、ええ――!」
安齋の持ちだした、使用許可申請書が綴じてあるファイルに視線を落とした林女史は、別の意味でぱっと顔を赤くした。
「あ、あらやだ……。なんでしょう。もう、お恥ずかしいわ。申し込みにこさせたのは生徒なのよ。先生の名前を間違う、だなんて……」
「なにか手違いがあったのでしょうね。我々も確認不足でした」
「いいえ、いいえ。名前が間違っているだなんて、思ってもみないことですよ。こちらの責任です。でも――困ったことになったわね」
「全てのチラシを訂正するということは難しいかも知れませんが、設置を依頼している部署には訂正書類を合わせて送付いたします。また、ホームページ上にて、訂正とお詫びを掲載させていただきます。それでいかがでしょうか」
「もちろんです。こちらの手違いなのに、そこまでやっていただけるなんて、本当にありがとうございます」
仁王像のような林女史は、今や菩薩像である。
にこやかに口元を押さえて、上品そうに笑み見せながら事務室を退室していった。
一連の経過を見ていた吉田は、ほっと胸をなでおろした。
だがしかし――。
一難去ってまた一難とはこのことである。
振り返った安齋は鬼のような形相だ。
「本来はお前が対応しなければならない案件だが」
「ありがとう……ございました」
「そうではないだろう? おれがいなかったらどうするのだ?」
「どうするって……」
――こんな、こんなことになるなら、チラシの作成なんてしなければよかった。
目尻に涙が浮かんだ。
「お前。もうチラシ作りなんて、やりたくないって思っただろう?」
「ち、違います」
「嘘だ。お前は無責任だ。人に甘え、誰かが助けてくれるという安易な考えが見え見えだ。最後まで責任を持つという気構えがなっていない」
「そんなことは……」
ファイルをバチンを片手で閉じた安齋は、吉田の目の前に立ちふさがる。
長身の彼は、吉田からしたら見上げるようだ。
物理的なものだけではない。
心理的なこの威圧感が、半端ないのだった。
「さっさと訂正文章を作成しろ。明日課長に確認してもらってから、掲載する」
「は、はい……」
「これは重大なる事案だ」
「でも、申込書が間違っていたんですよ。大体、なんなんです? 林とか森とか。間違うなんて有り得ないし」
「吉田! そんなことはどうでもいいのだ。差し詰め、あのくそ女にいびられている生徒の悪ふざけといったところだろ? おれたちには、そんなことはどうでもいいことなんだ」
先ほどまで、あんなに愛想を振りまいていたくせに。
『クソ女』はないと、吉田は思った。
「いいか? 訂正文書を添付したり、ホームページに謝罪文を掲載したりするということは、おれたちが確認ミスをしていたと捉えられても致し方がないのだぞ? なにか? お申込者の手違いで……なんて理由でもつけるつもりか?」
「それは……」
「申し込み受付者もお前になっているな。ここで何度も確認しないお前のミス。お前のミスだ」
二度も言い切られて、吉田は閉口するしかない。
もう怖くて怖くて、この場所から消えてしまいたいと思った
そんな隙を見せたのが運の尽きだったのかも知れない。
いつの間にか気が付くと、安齋に気圧されて、吉田は事務所の片隅に追いやられてたのだ。
目の前には長身の安齋。
背後には自分のデスク。
時計の針だけがチクタクチクタクと時を刻む。
――何事もなければ、安齋さんとここで、二人きり?
そう実感してしまうと、この場所は牢獄のように感じられた。
声を上げるのも変だ。
かといって、どうすることもできない。
安齋がどういうつもりでこうしているのかは、吉田にはわからないが、ただただ、時間が過ぎてくれることと、安齋の気が逸れてくれることだけを祈った。
しかし現実は、そううまくはいかないものだ。
「吉田。おれはな。お前が気に食わないのだ。お前を見ているとイラつく。星野さんや尾形に甘えて、課長にも甘えて。お前からは、みんながどうにかしてくれるだろうっていう甘さが滲み出ているんだ」
「ち、違います。そんなつもりは……」
「そんなつもりではないだと? ふざけるなよ。本当にお前は口ばかりだ。ドジで、ろくすっぽ仕事もできない。二年も経つというのに、やっと一人でやった仕事の結末がこれか? お前だけだぞ。初仕事でこんなヘマする奴は」
「……お、おれだって。一所懸命にやっています。だけど、その――」
必死に安齋を見返そうと視線を上げると、胸倉を握られて、引きずり上げられた。
――嘘でしょう?
口では冷たい言葉を投げかけられるのが日常茶飯事であるが、こうして暴力的な態度を取られたことはない。
吉田は血の気が引くのがわかった。
安齋の細い指は、吉田が想像するよりも力が強い。
ぐいっと締め上げられた喉元に気が付く余裕もない。
「言い訳ばかり言っているから、お前はダメなんだよ」
安齋は掴んでいた手を離したかと思うと、ドンっと吉田の躰を突いた。
意識が混濁しているせいで、躰が思うようにならない。
ただなされるがままに、吉田は後ろに倒れ込んだ。
デスクの上に重なっていた書類が数枚、床に落ちた。
それを横目に見ながら、自分が今、どういう状況に陥っているのかを理解しようと、頭をフル回転させているが、答えが見つからない。
ただ目の前にいる、自分を冷たい視線で見下ろしている安齋から、視線が外せなかった。
「おれにも甘えて見せるのか? おれは騙されない。お前なんかに――。どうした。怖くて声も出せないのか」
「――あ、安齋さんは、こんな人じゃないじゃないですか」
星野がよく言っている言葉を思い出す。
『安齋はいい奴だよ。あんな調子だけど、仕事もできるし、気も利くし、このホール始まって以来の優等生だろう』
――気のせいだ。これはきっと……夢。今日は疲れているだけなんだ。安齋さんは、きっと。疲れているんだ……。
吉田はそう信じたかった。
「そうだと言って」と懇願するように安齋を見上げた。
しかし、吉田の視線を受けて、安齋は心底愉快そうに笑みを見せた。
その笑みは営業スマイルとはかけ離れている――それはきっと、彼の本心から洩れ出てくる笑みに違いなかった。
吉田は彼のそれを見たことがなかった。
背筋がぞっとするのがわかる。
なんとも無慈悲な瞳の色。
歪んだ笑みに、自分の安易な希望は打ち砕かれたと自覚した瞬間でもあった。
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