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第5話 支配と享楽
日勤が終わり、職員たちがちらほらと帰り始める。
あの日から、眠れなくなった。
終始ぼんやりとしているのは、寝不足のせいだけではない。
四六時中、安齋に見張られているのかと思うと、精神的に疲弊しているのだった。
「吉田。帰るぞ」
安齋にキスをされたあの夜から、一週間ばかりたった頃だった。
帰宅時、不意に安齋から声をかけられたのだ。
彼が帰宅時に誰かを誘うなどということは、今までにない行動だったおかげで、事務室内は一瞬、空気が止まった。
「おいおい。吉田と安齋って、なに? 仲良しになっちゃったわけ?」
遅番である星野は「へえ~」と声を上げる。
同じく遅番担当の高田も「嘘だろう」と口を挟んだ。
「別におかしいことはないではないですか。――なあ。吉田」
吉田は、躰が強張る。
小さく身を縮こませることしかできなかった。
ここから逃げ出そうにも、足が竦んで張り付いてしまったようだった。
「ほらみろ。恐れているぞ。絶対に吉田は怖がっているって」
星野は「あはは」とのんきな笑い声をあげる。
しかし吉田からしたら、笑っている場合ではないのだ。
必死に星野を見るが、彼はまったくもって吉田の視線の意図を理解していない。
「いや。先輩後輩で仲良くすることはいいことだよ。吉田。よかったな。ほれ。仕事は、おれがやっておくからさ。さっさと帰った、帰った」
星野は良かれと思っているのだろう。
吉田の手からファイルを取り上げると、パソコンを勝手にシャットダウンした。
それから荷物を取り上げたかと思うと、それを吉田に押し付けた。
足が前に進まないのに、星野は吉田の背中をぐいぐいと押して、彼を事務室から追い出してしまったのだ。
「安齋。後輩を、いじめるなよ~」
――嬉しそうに手を振られても困る!
狼狽えている吉田は、足が竦んでしまう。
しかし、安齋はさっさと歩き出した。
「ついてこい」
「あ、あの。あの……。ですが。おれは……!」
いつまでもその場に立ち尽くす吉田に痺れを切らしたのか、安齋は吉田の腕を掴まえたかと思うと歩き出す。
職員玄関を通り抜け、職員駐車場まで、わき目もふらずに歩いて行った。
その間も、吉田は躰が強張っていて、言葉が出てこなかった。
「助けて」「嫌だ」……そんな言葉が喉元まで出かかっているのに、声にならなかったのだ。
恐怖で目の前が真っ黒だった。
安齋は自分の車のところまで、吉田を引きずっていったかと思うと、そのまま車に押し付けてきた。
「この一週間で、どれほどおれのことを考えた?」
耳元で囁かれる声は悪魔の誘惑みたいに甘い。
恐怖で膝がガクガクと震えていた。
「ど、どれほどって……。考えない日はありませんよ。あ、あんな。わけのわからないことを」
「わけがわからないとは、どういう意味だ。そのままだろう? おれはお前が好きだ。お前は自分に好意を寄せている人間には、誠意を見せるといった。それだけの話だ」
「そ、それはそうですが。だからといって、その。キ……キスをするなんてことは、そういうことには含まれないと思うんです!」
吉田は必死だった。
「好きっていう言葉にはいろいろな意味が含まれるわけで。好きだって言われたから、付き合うとかそういう問題じゃないじゃないですか。確かに、好意を持ってもらえたのであれば、誠意を持って対応します。ですが、それに応えるのかどうかは、その――」
段々、なんの話をしているのか、わからなくなってくる。
吉田はそっと安齋を見上げた。
安齋に救いを求めても仕方がないのだということを知っていてもなお、こうして縋るようにしてしまうのは、やはり心のどこかで甘えがあるからということなのだろうか――。
「お前はおれと付き合いたいのだな」
「は、はあ!? あ、あの。違います! 勘違いも、いい加減にして――っ」
安齋は吉田の言葉など待っていられないとばかりに、唇を重ねてきた。
――あの夜と一緒じゃない。
嫌なくせに。
抵抗しようと、口を閉ざそうとするが、安齋の人差し指が口角から入り込み、それを許さない。
閉じることが許されない歯牙の間を縫って入り込んでくる異質な感触は、不躾に吉田の口内を這いまわった。
目の前がチカチカして、頭が振られる――眩暈を起こしているのだ。
吉田はこの一週間、ほとんど熟眠できていない。
一人になると、安齋のことばかりを考えている自分がいる。
それは、まるでメビウスの輪のように、ぐるぐるとループして、結局はスタートに戻って来るだけの無意味な時間。
なのにやめられないのだ。
ある意味、吉田は安齋に支配されていた。
あの夜と同じだった。
両手首を握り上げられて、がっちりとした躰と車の挟まれて、逃れることは叶わない。
「……っ」
上げたくもない声が、鼻から抜けるように洩れ出る。
逃げるように引っ込めた舌を吸い上げられて、息が上がった。
「キスは慣れていないのか。お前、まさか童貞ではあるまいな」
キスだけで、腰に力が入らなくなっている吉田を見て、安齋は面白そうに笑みを見せた。
「ち、違います。おれだって、彼女の一人や二人くらい……」
「一人や二人しかいなかったのだな」
「いや。その――。いません。彼女なんて、いませんけど」
「ならいいではないか」
先ほどまでの甘い口づけとは裏腹に、乱暴に腕を引かれたかと思うと、助手席に押し込まれた。
「安齋さん!?」
「付き合えと言っている」
「だ、断固拒否です!」
「却下」
吉田がドアノブに手をかけるよりも早く、安齋は車を走らせた。
「アクション映画でもあるまいし。走っている車から転げ落ちるなよ。軽い怪我ではすまないぞ」
もちろん、そんな勇気など、はなからない。
ただ成されるがままだ。
「どこに行くんですか」
「おれの家だ」
「な、」
「おれはお前と付き合ってみることにしようかと思う。お前は見ていて興味深いからな」
「つ、付き合ってみようって。勝手に決めないでください」
「そうか。なら、明日。星野さんに言おう。お前とキスをしたことを」
脅迫だ――、と吉田は思った。
別に自分が悪いことをしているわけではないのだ。
だがしかし、男性である安齋と職務中にキスをしたなどということ、知られたくはなかったのだ。
思わず閉口してしまう。
「脅すんですね」
「そういうことだな。大丈夫だ。安心しろ。そう乱暴には扱わない。大人しくすればの話だがな」
――それが脅迫じゃないか!
吉田はじっと黙り込むしかない。
嫌で嫌で仕方がないはずなのに、安齋との件をそのままにしておいても、どうしようもないこともわかっている。
この一週間、彼からはなんのアプローチもなかった。
かといって、自分から話かけるということも考えていなかったのだ。
ただ一人でモヤモヤとした気持ちを持て余していた。
その苦しさと言ったらない。
心のどこかでは、この不安定で中途半端な関係性が、動き出すのかと思うと、安堵している自分もいることに吉田は気がついていた。
もちろん、吉田の希望としては、安齋が「冗談だった。すまなかったな」と言ってくれることが一番ではある。
もしかしたら、どっきりカメラみたいな企画なのではないかということも――。
――そんなはずないじゃないか。
楽観的観測など、なんの意味もないことだ。
現実とは、そううまくできているわけがないということ。
逃避行動なのだろう。
吉田は自分の内にばかり目を向け、現実を見ようとはしていなかった。
安齋に腕を引かれ、はったと我に返ると、そこは彼の自宅マンションの一室だった。絶望的状況であるということは理解できる。
先ほど続きとばかりに安齋に引き寄せられてキスを受けた。
彼のそれは執拗で、心がざわざわと高鳴った。
「でも、やっぱり」
「ここまで、ノコノコついてきて拒否するつもりか?」
「――それは、だって。安齋さんが」
「お前はすぐに人のせいだ。全て人のせい。本当にどうにかしたくなるくらい、ムカつくな」
彼の細い指で腰を撫で上げられると、身震いがした。
恐怖からくるものだと信じたい。
これが享楽のものではないと――。
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