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第8話 トイレでの仕置き

 日勤でもたもたとしていたら、定時を優に過ぎていた。  遅番は安齋と尾形。  残業で残っているのは、星野と吉田だった。  吉田は作成していた書類を途中にトイレに立つ。  星野たちがいてくれる残業は安心感がある。  他の職員がいれば、安齋も無茶なことはしてこないとわかっているからだ。  その安心が、油断につながるのか?   廊下を進み、トイレに入った瞬間。  後ろから伸びてきた腕に引き寄せられて、そのまま個室に押し込まれた。  一瞬の出来事で、なにがなんだかわからないが、安齋の感触や匂いは、すっかり躰に刻まれている。  相手が安齋であるということは一目瞭然だった。 「安齋さん……、仕事中ですよ」  声を押し殺し、彼を押し返す。  いつもだったら力強い安齋だが、なぜか今日は、容易にその拘束が外れた。 「明日から監査委員事務局の職員が来るそうだな」 「朝、課長から」 「で、なぜお前が対応するのだ」 「そう言われても……。課長からの命令です」 「断れ」 「な、なんなんです?」 「だから。その役割を断れと言っているのだ」  いつもとは違う、少し焦燥感に駆られたような瞳の色に、吉田は不安になった。 「ですが。課長命ですよ。なんて断れば……」 「体調が悪いとでもいえばいいだろう? お前はいつでもそうやって自分勝手に甘えているのだから」 「そ、そんなことありません。おれだって、できます。事務局の相手くらい」 「そんな大口をたたいて。後で泣き目を見るぞ」 「安齋さんがやりたいんですか? おれでは信頼できないんですか? 大丈夫ですよ。おれだって、できます」  吉田は安齋を見上げてはっとした。  彼の様子は、明らかにいつもと違っているからだ。  先ほどの瞳の色といい、険しい余裕のない表情に驚いた。  隙のある安齋に気が付いた吉田は、びくついて臆病な態度をかなぐり捨て、言い切った。 「放っておいてください! もう嫌なんですよ。おれは……」 「半年もこんな関係を続けているくせに。なにを今更。おれは、お前に強要しているわけではない。お前が勝手についてくるのだろう?」  安齋の言葉は、吉田には理解できないものだ。  なぜそんなことを言うのか。  眉間に皺を寄せる。 「お前は、おれから逃れようと思えば逃れられたはずだ。それなのに、誘えばそれに応えるではないか。違うのか。お前はおれが好きなのだろう?」 「な……自意識過剰もいい加減にしてください!」 「吉田。随分な口を利く。仕置きが必要だな」  両手首を左手で握られたかと思うと、頭上に持ち上げられる。  突然のことでバランスが崩れた。思わず狭い個室の壁に背中をぶつけた。 「……っ」  間を開けず、すぐに首元に歯を突き立てられた。 「痛っ」 「お前のこの喉元を食い破りたくなる」  この男の言葉は本気に聞こえて恐ろしくなる。  血の気が引いた。  ビリビリとする場所を舌で舐め上げられると、腰がゾクゾクと震えた。 「感じているくせに」 「違います!」 「素直じゃない。もっとマシな反応を示せよ。いつも同じ。つまらない男だ。たまにはおれを悦ばせろ」  安齋は空いている右手で、吉田のネクタイを緩め、それからワイシャツのボタンを外していく。 「や、やめてください。こんな場所で」 「仕置きだと言っている。バレない様にしろ」 「でも……」  そう言いかけた時、突然「安齋さーん」と尾形の声が響く。 「安齋さん、います? あれ? 吉田?」  呑気な声に吉田は息を呑む。  しかし安齋は止めるつもりはないようだ。  露わになった吉田の鎖骨を吸い上げた。 「……っ」 「吉田? 吉田なのか?」 「は、はい! 尾形さん……っ」  首筋を吸い上げることをやめない安齋は、そのまま、吉田の臍から下へと指を這わせる。  直に触れてくる安齋の指先の感触に、堪らずに声が漏れそうになるのを噛み殺した。 「――っ!」 「お前。大丈夫?」 「お、お腹痛くて。すみません。大丈夫です。もう少し、したら……っ」   「おいおい。安齋さんを探しているんだけどさあ。吉田、知らない?」 「すみません……、わ、わかりま……せん」 「そっか。わかった。――おいおい、無理すんなよ。ゆっくり入ってこいよな!」  ドアが軋む音がして尾形の気配が消える。  その安堵感とともに、我慢していた嬌声が漏れた。 「よく我慢したな。吉田」  腹から差し込まれた右手は、焦らすかの様に肝心なところを触れてはくれない。 「お前は好きなはずだ。おれとのセックスが」 「ち、違……っ」 「いいか。明日からの事務局との仕事は断れ。いいな」 「……嫌です……っ」 「強情だな」  だって。  おれだって一人前になりたいんだ。  いつまでも甘えていたくはないんだ。  だって……。  そんなことを考えていると、ふと安齋の手が離れていった。 「今日はここまでだ。あとは自分で始末しろ」 「安齋さん……」 「お前が明日からの仕事を受けると言うなら、勝手にしろ。泣きついてきても知らないからな」  彼はそう言い放つと、吉田を見た。 「な、なに……?」  いつも冷ややかに自分を見下すのに。  その瞳には、落胆の色が浮かんでいた。 「安齋さん。なに考えているのか、おれにはわからないよ」  熱を帯びた躰は治りきれない。  躰の奥底からジンジンとしてくるこの欲望をどうにかしないと、仕事に戻れるわけがなかった。  そしてそれは、躰だけではない。  この気持ちも――。    ――安齋さんのことなんて、どうでもいいはずなのに。嫌いなのに。  立ち去る時の彼の表情を見ただけで、こんなにも心が苦しくなるのはどういうことなのだろうか。  吉田は惨めな気持ちになりながら、そっとベルトに手を伸ばした。

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