10 / 18

第9話 野獣の過去を知る男

 翌日の昼過ぎ。  モヤモヤとした気持ちのまま、椅子に座っていると、「こんにちは~」と陽気な声が響いた。  男は長身。  鳶色(とびいろ)に染めた明るい髪に、派手な茜色のネクタイ。  とても公務員とは思えない出で立ちの男が、カウンターのところに立っていた。 「監査委員事務局の神野(じんの)涼太です。今日の午後と、明日午前中、お世話になりまーす」  軽い感じの神野に、緊張していた事務室内は、一気に空気が緩んだ。 「悪いねえ。神野くん」  水野谷が腰を上げる。 「いいえ。むしろ、お忙しい時期にすみませんでした。他部署の監査日程もあって、どうしてもこの時期しかなくて。ちゃんと謝ってこいよって局長に言われてきました」 「いやいや。いいんですよ。とりあえず、今日と明日。うちの若手を付けるから。よろしくね」  水野谷が吉田に視線を向けてきたのを合図に、吉田は駆け寄った。 「吉田です。どうぞよろしくお願いいたします」 「あ、いいんですか。すみません~。別に放っておかれてもいいんですけど。誰かついてくれるなら、助かります。その方が効率がいいし」  神野は吉田に笑顔を見せた。 「よろしく。吉田くん。えっと、よしだ、だからよっしーでいいか」 「え」 「はは。神野くんは、人と仲良くなるのが得意ですね」  水野谷は笑うが、正直、「よっしー」なんて呼ばれて嬉しいわけがない。  しかも、背後からは相変わらずの冷たい視線が……。 「あれ、安齋じゃないの~。おお、おお~。久しぶり~。入庁してから一緒の部署にならないな~って思ったら。こんな辺鄙(へんぴ)なところに流されていたんだっけ」  神野はへらへらと笑っているが、その内容は不躾だ。  吉田は嫌な気持ちになったが、言われている安齋は、そう気にも留めないように神野に一瞥をくれただけだ。 「なんだよ~。無視かよ」 「おい、安齋」  ふと星野がたしなめるように声を上げた。  それを受けて、彼は渋々と神野に向き合った。 「お前が来るのは昨日聞いた。おれのせいで査定を厳しくするなよ」 「はいはい。そんなことするわけないっしょ。お仲間なんだからさ~。内部監査なんて、名ばかりじゃん」 「お前な」  安齋がむっとした顔を見せたのを見て、水野谷が口を挟んだ。 「二人は同期でしたね」 「そうなんっす。実は大学も一緒で。本当に不愛想でしょう? こいつ。仕事になるんですか? 星音堂(せいおんどう)って接客もするんですよね? お前に務まるのかよ」  黙り込む安齋に、水野谷が代わりに答えた。 「安齋は優秀ですよ。うちの部署では欠かせない存在だ。神野くん」 「へ~。どれどれ。じゃあ、お前の能力も見させてもらおうじゃないか。どれ、よっしー。仕事はじめよっか」 「は、はい」  吉田は神野から手渡された書類を元に、資料を集めるように指示された。  監査が始まるのだ。  不機嫌そうな安齋の横顔が気になる。  昨日は、監査の対応を降りろと言われたが、なんとなくその意味がわかったような、わからないような。  吉田は資料をかき集めてから首を横に振った。 「おれだって、できるし。安齋さんを見返してやるんだから」 ***  ――安齋さんの視線から逃れると、こんなにもせいせいとするんだ。  彼と過ごす時間は多い。  職務中はもちろんのこと、ここのところ仕事以外でもそうだ。  「嫌だ」という割には、安齋に誘われると、そのまま、なさがれるがまま、彼のマンションに足を運んでいる自分に嫌気がさす。  最初の頃は、星野たちにバラすと言われて、半分は脅迫まがいだったはずだ。  それなのに、今はすっかり自分から足を運んでいるのだ。  ――おれは安齋さんのこと、どう思っているんだろう。  ぼんやりとそんなことを考えていると、神野が「安齋」と彼の名を呼んだ。  吉田は、はったとして顔を上げる。  安齋が入ってきたのではないかと思い、どっきりとしたからだ。  しかしそこにいるのは、自分と神野の二人だけだった。 「なんです。突然」 「いやいや。この字さあ。安齋のでしょう? この刺々しい突き刺さりそうな独特の字。懐かしいね」  ――神野さんは、安齋さんと大学が一緒だと言っていたっけ。 「あ、あの。神野さんと安齋さんは仲がいいんですか?」 「仲がいいように見えるわけ? あんなの」  彼は「ふふ」と笑った。 「もうねえ。大学時代からいけ好かない奴だよ。おれと、安齋と、もう一人ね。大学時代の同級生なんだけど。三人共、市役所に就職したんだよー。笑えるでしょ?」 「三人、ですか」 「別に仲がいいわけじゃなかったんだけどさ。最初に安齋が市役所受けるって話になって……。もう一人の岡は、安齋にぞっこんでさ。民間企業の内定蹴ってまで市役所職員になるって言いだすんだ。驚きだろー? で、おれもなんだかおもしろそーだなって思って、受けたんだけど」 「そういうノリで市役所職員になっちゃうんですか」 「おれの人生はそんなもんだからね~」  神野はおかしそうにげらげらと笑った。  しかし、本当に気になるところはそこではない。  ――岡さんって人。安齋さんを追っかけて市役所に入ったって……。恋人なのかな。え、じゃあ、それって……。  吉田は心がざわついた。  恋人がいるというのに、自分にちょっかいをかけているということなのだろうか。  信じられないと思った。  ――おれなんて男だし。きっと遊びなんだとは思っていたけど……。  恋人がいるとわかって、なんだかがっかりしているのは気のせいではない。  吉田は俯いた。 「あらあら。どうした? よっしー。仕事、疲れているんじゃないの? ねえねえ。今晩さ、飲みにでも行こっか」 「の、飲みですか。でも。おれ。そんなにお酒は強くなくて……」 「いいじゃん。別に。大丈夫だって。おれの家に来なよ。寝ちゃっても平気っしょ? どうせ、明日は一緒に出勤してもいいんだし」 「い、いや。あの。そんな。初対面の人にお世話になる、だなんて」 「大丈夫。おれ男だし。問題なし! よっしーがかわいゆい女の子だったら、もう彼女にしちゃうのにな」  神野の言葉はなんだか笑えない冗談に聞こえた。  ――いやいや。これが普通だもん。だって、普通は、男同士でキスしたり、エッチなことしたりしないもの……。 「よっしーは、本庁に異動したいって思ったりしないの?」 「え、ありますよ。おれだって、本庁で働いてみたいです」 「でしょう? 本庁のことも教えてあげられるし。おれ、ほら。監査しつつ、職員のこともついでに報告ができちゃうわけ。人事に上がれば、よっしーも本庁に異動できるかもよ?」 「え! 本当ですか……?」 「嘘じゃないよ。本当のことしか言わないもん」  神野はにこっと笑みを見せた。  安齋と同期とはとても思えない。  彼には愛嬌があり、親近感を抱きやすい。  安齋とは正反対だ。  彼は鼻歌を歌いながら、書類の精査をこなす。  見た目は軽いが、その手早さを見ていると、仕事はできる男らしかった。  吉田はふと、手を止めてから神野の言葉を思い出していた。  安齋には恋人がいたのだ。  もう関係ない。  そう自分に言い聞かせて、吉田は首を縦にふった。 「わかりました。おれ、日勤なんで大丈夫です」 「よかった~。あ、安齋は誘わなくていいでしょう?」 「安齋さんは、今日も遅番なんです。大丈夫です」 「あいついると、しらけるしな。よかった~。じゃあ、ちゃちゃっと見ちゃいましょうか」 「はい!」  久しぶりの安寧であった。  安齋と一緒にいると、緊迫感で支配されている。  いつも、粗相をしないか、彼の怒りに触れないかと、萎縮しているのだ。  心が軽いのを自覚して、吉田は嬉しい気持ちになった。

ともだちにシェアしよう!