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第9話 野獣の過去を知る男
翌日の昼過ぎ。
モヤモヤとした気持ちのまま、椅子に座っていると、「こんにちは~」と陽気な声が響いた。
男は長身。
鳶色 に染めた明るい髪に、派手な茜色のネクタイ。
とても公務員とは思えない出で立ちの男が、カウンターのところに立っていた。
「監査委員事務局の神野 涼太です。今日の午後と、明日午前中、お世話になりまーす」
軽い感じの神野に、緊張していた事務室内は、一気に空気が緩んだ。
「悪いねえ。神野くん」
水野谷が腰を上げる。
「いいえ。むしろ、お忙しい時期にすみませんでした。他部署の監査日程もあって、どうしてもこの時期しかなくて。ちゃんと謝ってこいよって局長に言われてきました」
「いやいや。いいんですよ。とりあえず、今日と明日。うちの若手を付けるから。よろしくね」
水野谷が吉田に視線を向けてきたのを合図に、吉田は駆け寄った。
「吉田です。どうぞよろしくお願いいたします」
「あ、いいんですか。すみません~。別に放っておかれてもいいんですけど。誰かついてくれるなら、助かります。その方が効率がいいし」
神野は吉田に笑顔を見せた。
「よろしく。吉田くん。えっと、よしだ、だからよっしーでいいか」
「え」
「はは。神野くんは、人と仲良くなるのが得意ですね」
水野谷は笑うが、正直、「よっしー」なんて呼ばれて嬉しいわけがない。
しかも、背後からは相変わらずの冷たい視線が……。
「あれ、安齋じゃないの~。おお、おお~。久しぶり~。入庁してから一緒の部署にならないな~って思ったら。こんな辺鄙 なところに流されていたんだっけ」
神野はへらへらと笑っているが、その内容は不躾だ。
吉田は嫌な気持ちになったが、言われている安齋は、そう気にも留めないように神野に一瞥をくれただけだ。
「なんだよ~。無視かよ」
「おい、安齋」
ふと星野がたしなめるように声を上げた。
それを受けて、彼は渋々と神野に向き合った。
「お前が来るのは昨日聞いた。おれのせいで査定を厳しくするなよ」
「はいはい。そんなことするわけないっしょ。お仲間なんだからさ~。内部監査なんて、名ばかりじゃん」
「お前な」
安齋がむっとした顔を見せたのを見て、水野谷が口を挟んだ。
「二人は同期でしたね」
「そうなんっす。実は大学も一緒で。本当に不愛想でしょう? こいつ。仕事になるんですか? 星音堂 って接客もするんですよね? お前に務まるのかよ」
黙り込む安齋に、水野谷が代わりに答えた。
「安齋は優秀ですよ。うちの部署では欠かせない存在だ。神野くん」
「へ~。どれどれ。じゃあ、お前の能力も見させてもらおうじゃないか。どれ、よっしー。仕事はじめよっか」
「は、はい」
吉田は神野から手渡された書類を元に、資料を集めるように指示された。
監査が始まるのだ。
不機嫌そうな安齋の横顔が気になる。
昨日は、監査の対応を降りろと言われたが、なんとなくその意味がわかったような、わからないような。
吉田は資料をかき集めてから首を横に振った。
「おれだって、できるし。安齋さんを見返してやるんだから」
***
――安齋さんの視線から逃れると、こんなにもせいせいとするんだ。
彼と過ごす時間は多い。
職務中はもちろんのこと、ここのところ仕事以外でもそうだ。
「嫌だ」という割には、安齋に誘われると、そのまま、なさがれるがまま、彼のマンションに足を運んでいる自分に嫌気がさす。
最初の頃は、星野たちにバラすと言われて、半分は脅迫まがいだったはずだ。
それなのに、今はすっかり自分から足を運んでいるのだ。
――おれは安齋さんのこと、どう思っているんだろう。
ぼんやりとそんなことを考えていると、神野が「安齋」と彼の名を呼んだ。
吉田は、はったとして顔を上げる。
安齋が入ってきたのではないかと思い、どっきりとしたからだ。
しかしそこにいるのは、自分と神野の二人だけだった。
「なんです。突然」
「いやいや。この字さあ。安齋のでしょう? この刺々しい突き刺さりそうな独特の字。懐かしいね」
――神野さんは、安齋さんと大学が一緒だと言っていたっけ。
「あ、あの。神野さんと安齋さんは仲がいいんですか?」
「仲がいいように見えるわけ? あんなの」
彼は「ふふ」と笑った。
「もうねえ。大学時代からいけ好かない奴だよ。おれと、安齋と、もう一人ね。大学時代の同級生なんだけど。三人共、市役所に就職したんだよー。笑えるでしょ?」
「三人、ですか」
「別に仲がいいわけじゃなかったんだけどさ。最初に安齋が市役所受けるって話になって……。もう一人の岡は、安齋にぞっこんでさ。民間企業の内定蹴ってまで市役所職員になるって言いだすんだ。驚きだろー? で、おれもなんだかおもしろそーだなって思って、受けたんだけど」
「そういうノリで市役所職員になっちゃうんですか」
「おれの人生はそんなもんだからね~」
神野はおかしそうにげらげらと笑った。
しかし、本当に気になるところはそこではない。
――岡さんって人。安齋さんを追っかけて市役所に入ったって……。恋人なのかな。え、じゃあ、それって……。
吉田は心がざわついた。
恋人がいるというのに、自分にちょっかいをかけているということなのだろうか。
信じられないと思った。
――おれなんて男だし。きっと遊びなんだとは思っていたけど……。
恋人がいるとわかって、なんだかがっかりしているのは気のせいではない。
吉田は俯いた。
「あらあら。どうした? よっしー。仕事、疲れているんじゃないの? ねえねえ。今晩さ、飲みにでも行こっか」
「の、飲みですか。でも。おれ。そんなにお酒は強くなくて……」
「いいじゃん。別に。大丈夫だって。おれの家に来なよ。寝ちゃっても平気っしょ? どうせ、明日は一緒に出勤してもいいんだし」
「い、いや。あの。そんな。初対面の人にお世話になる、だなんて」
「大丈夫。おれ男だし。問題なし! よっしーがかわいゆい女の子だったら、もう彼女にしちゃうのにな」
神野の言葉はなんだか笑えない冗談に聞こえた。
――いやいや。これが普通だもん。だって、普通は、男同士でキスしたり、エッチなことしたりしないもの……。
「よっしーは、本庁に異動したいって思ったりしないの?」
「え、ありますよ。おれだって、本庁で働いてみたいです」
「でしょう? 本庁のことも教えてあげられるし。おれ、ほら。監査しつつ、職員のこともついでに報告ができちゃうわけ。人事に上がれば、よっしーも本庁に異動できるかもよ?」
「え! 本当ですか……?」
「嘘じゃないよ。本当のことしか言わないもん」
神野はにこっと笑みを見せた。
安齋と同期とはとても思えない。
彼には愛嬌があり、親近感を抱きやすい。
安齋とは正反対だ。
彼は鼻歌を歌いながら、書類の精査をこなす。
見た目は軽いが、その手早さを見ていると、仕事はできる男らしかった。
吉田はふと、手を止めてから神野の言葉を思い出していた。
安齋には恋人がいたのだ。
もう関係ない。
そう自分に言い聞かせて、吉田は首を縦にふった。
「わかりました。おれ、日勤なんで大丈夫です」
「よかった~。あ、安齋は誘わなくていいでしょう?」
「安齋さんは、今日も遅番なんです。大丈夫です」
「あいついると、しらけるしな。よかった~。じゃあ、ちゃちゃっと見ちゃいましょうか」
「はい!」
久しぶりの安寧であった。
安齋と一緒にいると、緊迫感で支配されている。
いつも、粗相をしないか、彼の怒りに触れないかと、萎縮しているのだ。
心が軽いのを自覚して、吉田は嬉しい気持ちになった。
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