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第10話 ため息

 定時になる頃、水野谷が顔を出した。 「どうですか。神野(じんの)くん」 「あ、水野谷課長。今日はそろそろ終わりにいたします。時間外までいたのでは、ご迷惑ですからね。――吉田くんをつけてもらったので、大変スムーズでありがたいです」  水野谷は神野の隣にいる吉田を見て、「うんうん」と嬉しそうに笑みを見せた。 「吉田はうちの期待の新人なんですよ。かわいいでしょう? 僕、大好きです」 「課長、そういう発言はセクハラになりますよ。まあ、わからなくもないですけれど」  神野は、顔を熱くしている吉田をちらりと見て寄越した。 「みんなに愛される新人君ですもんね。いいことです」 「あ、吉田のこと、あまりよく報告しないでくださいよ。本庁に引き抜かれたら困っちゃう」  水野谷の言葉に、吉田はどっきりとした。  ――この人。本当に侮れないんだよな……。  水野谷は飄々としている、昼行燈みたいな男だ。  丸眼鏡。  白髪交じりの短髪。  ベストを着用していて、上品そうな出で立ちをしていた。  星野の話だと、学習院を出ているらしい。  今時、庶民でも入れる学校だろうが、それでも、やはり。  いいところのおぼっちゃまという風体だ。  そのくせ、仕事に関しては鋭い感性を持ち合わせ、どんな難局でも、軽々と解決して見せるのだからすごい。  吉田は水野谷が大好きだった。  いつかこんな管理職になりたい。  そう、憧れの上司なのだ。 「承知しております。――さて。書類は一旦、片付けましょうか」 「いいえ。このまま施錠してしまうので、大丈夫です。今日はお疲れ様でした」 「こちらこそ、ありがとうございました」  神野と水野谷はお互いに頭を下げ、会議室を消灯する。  吉田は会議室の鍵をかけてから、後から事務室に戻った。  中は帰宅ムードだ。  監査委員事務局が来たというのは、少なからず他の職員たちも疲れさせた様子だった。  遅番である星野と安齋以外は、みな帰り支度である。 「いやあ、神野くんより先にドロンなんて、まずいところ見られちゃったな~」 「氏家さん。親父ギャグ、引っ込めて」  いつも親父ギャグが口癖の氏家は、高田に咎められて、舌をペロリと見せた。 「ドロンは知っていますよ。大丈夫ですよ」  神野は苦笑すると、「それでは」と声を上げた。 「一日目、ありがとうございました。また、明日ですね。どうぞよろしくお願いいたします」 「こちらこそ」 「お疲れ様でした」  口々に言葉を交わし、神野は頭を下げる。  それからちらりと吉田を見た。  ――外で待っているね。  そういう合図だろう。  吉田は軽くうなずいてから、自分もデスクに戻って帰り支度をした。  隣の席の星野がニヤニヤとしながら吉田に声をかけた。 「お前も疲れただろう。さっさと帰って明日に備えろよ。明日も忙しい」 「わかりました」 「お前が監査担当なんてなってるからよお。今日は安齋と遅番になっちまったじゃないか~。な~、安齋」  星野の言葉に、安齋は「そうですね」とだけ返した。  珍しいことだ。  安齋という男は、基本的に事務所の同僚にも愛想を使う。  今日は素の自分を隠しきれていない様子だった。 「な、なんだよ~。素気ないねえ。お前」 「いえ。すみません。ぼーっとしていたようです」 「お前がぼんやりするなんてよ。余程、あの神野ってやつが気になるのか?」 「そんなんじゃないです。……けど」  いつもとは違い、歯切れの悪い返しに、吉田は首を傾げたが、そんなことはどうでもいいと思った。  ――安齋さんには恋人がいるんだ。おれなんて、きっとどうでもいいに決まってるもん。  本来、本日の遅番担当は吉田であった。  しかし神野の面倒を見るには、明日も朝からの勤務が必要だ。  今日の遅番を安齋に変更してもらい、吉田は二日間とも日勤扱いになっていたのだった。  荷物を乱暴に持ち上げてから、吉田は「お疲れ様でした」と頭を下げてから廊下に出た。  ――なに、これ。別にいいし。なにイライラしてんだよ。おれ……。  なんだか妙に胸がざわつくのだ。  安齋に恋人がいると聞いてからだった。  関係ないのに。  どうでもいいのに――。  心がざわざわと波打って、落ち着かないのだった。  事務室から、職員玄関へと足を向けた瞬間。  ふと後ろから伸びてきた腕に掴まれた。  はったとして顔を上げると、そこには安齋がいた。 「な、なんなんですか」 「お前――。神野に誘われたのか」 「え? ――安齋さんには関係がないじゃないですか。だって……彼女が」  吉田の言葉に、彼は怪訝そうに眉間にシワを寄せた。 「なんの話をしている? 神野になんと言われた」 「べ、別に。安齋さんには関係がないことですよ」 「関係ない、だと?」  神野とのことで、気持ちが高ぶっているのだろうか。  いつもとは違い、強気で安齋を押し返す。 「もう放っておいてくださいよ。どうせ、彼女いるくせに。あ、あんなことや……こ、こんなこと。おれにしなくてもいいじゃないですか。恋人にでもしてくださいよ」 「お前――」  ――怒られる? またお仕置き?  そう思って目を瞑るが、今日は安齋のため息しか聞こえなかった。  ――え? 「わかった。もういい」 「え?」 「神野がいいなら、そうしておけ。だが、あいつは――。いや、いい。好きにしろ」  ――なにその顔。  彼の顔は、落胆の色が強い。  なんだか自分が悪いことをしているみたいで、胸が締め付けられた。  ――そんなの勝手じゃない。いつも、人にひどいことをするのに。なにそれ。おれが神野さんとごはん食べるのが、そんなに傷つくの? そんなの勝手だ。  吉田はなんだか妙に胸が締め付けられた。  そして、それと同時に苛立ちを覚えた。 「い、いいですよ。好きにさせてもらいます」 「そうしておけ」  ――なんだよ。引き留めないの? 知らないんだから!  自分のモヤモヤとする気持ちがなんなのか、吉田にはわからない。  だけど、とっても面白くないという気持ちになった。  吉田は荷物を抱え直し、踵を返して職員玄関から外に出た。  ――遅番まで代わってもらったくせに。なにやってんだ……おれ。  安齋から離れていくと、後悔ばかりが気持ちを支配する。  だが後戻りはできないのだ。  玄関から出て、左手に折れる。  自転車置き場の前を通過して、歩道に出ると、赤い外車がハザードランプを点滅させて停まっていた。 「よっしー、こっち、こっち」  ――本庁の職員は外車にも乗れるの? すごい!  安齋との邂逅が、心のどこかに引っ掛かっているものの、神野の姿を見たら、心が変わった。  吉田は彼の車の助手席に躰を押し込んだ。

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