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第11話 ダイキライ

 ――おれの給料では、マンションなんて買えるわけないよ。  吉田の実家は市内にある。  姉が結婚し、実家に住んでいるため、彼は一人アパートに出たのだった。  姉には「一緒に住めばいいじゃない」と言われているが、姉の配偶者や、姉の子供たちもいて、なにかと気を遣うのだ。  だったら一人がいいとばかりに、職場の近くに一人暮らしをしている最中なのだが――。  家賃や光熱費を考えると、それもギリギリの話だった。  そんな吉田の現状から考えると、神野(じんの)や安齋の生活は、なんだか別世界のような気がしたのだった。 「わあ、眺めがいいんですね」  神野の住まいは、駅近くのマンションの十五階だ。  梅沢市では目立つ高層マンションである。 「夜景がきれいだとさ。女の子を誘いやすいんだよね」  神野はキッチンに立ちながら笑う。 「神野さん、モテそうですもんね」 「特定の彼女は作らないんだ。だって束縛されるのは好きじゃないし。いろいろな子と楽しみたいじゃん」 「一人もいないおれからしたら、わからない発想です」  吉田の素直な感想に、神野は笑みを見せた。 「よっしーって、本当に素直で可愛いよね。彼女いないなんて信じられない。女子が放っておかないよ。母性本能くすぐられるタイプでしょう?」 「星音堂(せいおんどう)にいたら、男しかいないんですよ。出会いなんてないんです」  吉田はソファの横に荷物を置き、それから腕まくりをしてキッチンに向かう。  対面式のキッチンは広々していて、モデルハウスみたいだった。 「友達に紹介されないの? 役所職員って、安定しているから人気高いんだよ」 「友達とも、最近は会わなくなりました」 「え~。意外。よっしーって友達とワイワイしてそうなのにね」  ――それは昔の話だ。  安齋と出会ってから、安齋と歪んだ関係性になってから。  吉田は人とこうして気軽に話ができなくなったのだから――。  神野に指示されて、レタスをちぎりながら、ぼんやりとしていると、ふと神野が「安齋」と彼の名を呼んだ。  条件反射で躰が強張った。 「そんなに、怖い? 安齋って」  神野はそっと吉田の肩に手をかける。  それは、安齋のあの冷たさとは違い、温かい手のひらだった。 「こ、怖いです。安齋さんって」 「あ~あ。こんなに怯えちゃって。可哀そうに……。本当に安齋は変わらないんだね」 「変わらない――ですか?」 「ああ、変わらないね。あいつ。大学時代、たまたまサークルで一緒になってね。別に友達になるつもりなんてなかったんだけど。横で見ていると胸クソ悪くなる奴だったんだよね~。おれ、あいつが大嫌い。よっしーもそうなんでしょう?」  ――ダイキライ?  そう、嫌いなのだ……、と吉田は思った。 「涼しい顔して。おれよりも成績優秀。教授にも気に入られて。嫌になる」  ――それって、ヒガミなんじゃあ……。  吉田はそんなことを思いながら、レタスを水で洗った。 「どれ、盛り付けたら食べようか」 「は、はい」  安齋の昔の話を聞くと、少し胸が熱くなるのはどういうことなのだろうか。  今と変わりがない人なのだな――。  しかし、そこではっとした。  ――安齋さんには恋人がいるんだった。 「あ、あの。岡さんって、きれいな人――なんですか?」  吉田は、言いよどみながら神野に尋ねた。  ワインを準備しながら、神野は「あはは」と笑った。 「気になるの? 嫌いなんじゃないの」 「べ、別に……。嫌いですし。気になんかならないですけど」 「じゃあ、教えない」  神野は意地悪そうに笑みを見せる。 「なーんてね。岡はねえ――」  吉田は息を飲んで、次の言葉を待った。 ***  安齋の背中が見えた。  たくましい背中だ。  彼のその背筋に触れると、心がざわつくのだ。  あの温もりは自分にだけ向かっていたと思っていたのに――。  それは幻想だったのだ。  ――結局は、おれはお遊びだ。  仕事もできる。  周囲からの信頼も厚い。  そんな男が、自分に心を寄せるなんてことはあり得ない。  ただの戯れだ。  そんなこと、わかっていたはずなのに。 『岡はね。よくできた子だったよ。周囲にも気配りができるし、静かで控えめ。出過ぎたことはまずしない。いつも安齋の横に寄り添って、笑顔を見せていたっけ。岡といる間、あの野獣の安齋が、穏やかな表情を見せるんだ。岡は、安齋のことを愛していた。あいつもまんざらじゃなかったみたいだ』  ――自分とは正反対じゃない。  ドジでおっちょこちょい。  いつだなし安齋の手を煩わせている。  何一つ、自分で成し遂げることもできない甘えん坊だ。    ――就職も蹴って、自分についてきた岡さんって人のことを、安齋さんは、どう思っているんだろう……。きっと大事に決まってる。 「よっしー、大丈夫? なんかストレスでも溜まってるんじゃないの。それとも疲れているんじゃない? 酒弱いね」  「弱いわけじゃないんですが……あれ? おかしいなあ」  視界が歪んで見えた。 「よっしーにストレスを与えているのは安齋だよねえ。ねえ、よっしーは安齋が好きなんじゃないかな?」 「な、なにを――?」  歪んでいた視界が霧がかかっているように霞んできた。  目の前にいる神野の口元が歪んで見えた。  思わずテーブルに手をつく。  そうでもしないと、姿勢を保つことができないのだ。  躰が鉛のように重かった。  ――あれ? おかしいな? なに。これ……。

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