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第12話 媚薬とおねだり

「安齋とは付き合っているの? そんなに岡のことが気になるの?」  神野の顔がぐらんぐらんと歪んでいる。  耳元に心臓があるのではないかと思うほど、耳元で拍動が大きくなった。 「――神野さん? あ、あの……なんの話なのか……」 「よっしーは安齋の好みのタイプだもの。一目みてわかったよ。もう手をつけているんじゃないかってね。全くその通りだったみたいだね。安齋がそんなに好き? 安齋のキスはいいのかな?」  ふと気が付くと、神野(じんの)がすぐそばに立っていた。  彼の指が吉田の顎にかかり、そのまま唇が重なった。  そのキスは、安齋のそれとは違っている。  妙にねっとりと絡まるような舌に、嫌悪感が走るはずなのに、躰は熱くなるばかりだった。 「いけない子だよ。すぐに騙される。キミみたいなバカ正直な子は、本庁には向かないね。なるほどね。安齋はよほどキミが大事と見える。すっかり抱え込んでいるみたい」  自由にならない吉田は、神野のなされるがままだった。  ――変だ。なんか。変……。  神野は安齋に対し、卑屈な感情を抱いていることを理解した。  吉田が好きなわけではないのだ――ただ。  安齋への嫌がらせ――。  何度も口づけられて、躰は素直に反応する。  いや、いつも以上に反応するのは、この変な状況のせいだと頭のどこかで理解している。  だが、躰に与えられる刺激は、そんな理性なども溶かしていく。  ――誰でもいいわけじゃないんだ。だって、おれは……。  吉田は重い腕をやっとの思いで動かし、神野の躰を押し返した。 「わ……わかりません、けど……でも。おれは――」  ――安齋さんがいい……。 「吉田!」  安齋のことを考えていたおかげで、幻覚でも見ているのだろうと吉田は思ったが、それは現実だったようだ。  吉田のそばにいた神野は、安齋に殴られて、床に転がっていた。 「暴力だ! 暴力! そして不法侵入だぞ! お前」  神野は尻もちをついたまま頬を抑えていた。  ――安齋さん、なの? 今日は遅番じゃ……。 「神野。お前のやり口は知っている。吉田に近づいて、おれから吉田を奪う気だな」 「はは。当然じゃん。おれはお前に嫌がらせをすることをライフワークにしてんだよ」 「悪趣味野郎」  机に突っ伏している吉田の頬に、安齋の冷たい指先が触れた。  神野の指先とは違う。  その指先に触れられると、無性に心が落ち着いた。 「今回の監査はさ、お前の素行調査しろって言われていたんだ。いいのか? おれにこんな非礼を働いて。本庁に報告するぞ。お前のその不祥事――」 「別に構わない。おれは本庁に異動したいなんて、一つも思ってはいない。それよりもいいのか?」  彼は手に握っていた薬のシートを見せつけるようにヒラヒラと取り出した。 「そこに置いてあったぞ。これは違法薬物というのではないか? 本庁どころか、警察に通報してやってもいいがな。――こんなもの。おれの大事な吉田に盛ってくれるとは……だがしかし。どうやらこれは面白い薬らしいな」  ふと視線を感じて顔を上げると、安齋は意地の悪い、いや、吉田を遣り込める時のあの残忍な視線を向けていた。 「煽情的で堪らないな。吉田」  ――一難去って、また一難……。 「くそ!」  神野はあの優しい笑みではない。  その表情は、吉田が今まで見たこともないような、(いびつ)な、不可思議なものだった。  そこで吉田は、彼の本質を知った。  騙されていたのだ。  安齋に嫌がらせをするために、人懐こく吉田にまとわりついていただけだったのだ。 「吉田は預かっていくぞ。反省しておけ。昔のよしみで、今回だけは許してやる」  ぐったりと手足が重い吉田は、安齋に抱え上げられた。  たくましい躰の感触に、吉田は心がざわざわと胸が躍る。  躰が火照って、堪らないのだった。 ***  ――どうして安齋さんがそばにいてくれると安心するんだろう……。  低い調子の声色が、耳に心地よい。  吉田は安齋の自宅に連れてこられた。 「お、遅番は?」  舌が回らないおかげで、声が上ずった。 「星野さんが。途中で帰れって言ってくれたのだ。お前のことを気にしてた。神野は、昔からおれの大事なものにちょっかいを出す。だから心配で……」  その言葉を一瞬、疑ってしまう。  安齋の口から「おれの大事なもの」、「心配だ」なんてことは聞いたことがないからだ。  目の前にいる彼は本物なのだろうか?  それとも、この変な薬が見せる幻なのだろうか――?  吉田は安齋に支えられて、覚束ない足取りで歩いていたが、彼のリビングに入った途端、その安心感からなのか、膝の力が抜けた。  床に倒れ込みそうになるところを、安齋はその両手で抱き留めてくれた。 「しかし、随分と盛られたようだな。お前さ。もう少し警戒しろ。料理や酒の味、変わっていたのではないか。無味無臭なんて、そうないと思うのだが」 「だって――。神野さんは、いい人なのかと。安心してしまって」 「だからバカなんだ」  ――それよりも。 「あ、安齋さん」  吉田はそっと安齋の腕にすがる。 「躰が熱いんです」  喘ぐように息を吐くと、彼の腕が腰に回ってきた。 「楽にしてやろうか。吉田」  ――楽にして欲しい。だけど……。 「楽にして欲しいですが……でも。安齋さんには岡さんって人が……」  安齋は眉間にしわを寄せた。 「神野に言われたのか」 「岡さんと安齋さんは、大学時代に付き合っていて……。岡さんは、就職の内定を蹴ってまで、安齋さんと同じ市役所に入りかったって。岡さんって人は、控えめで、それでいて穏やかで。安齋さんのことをすごく愛していたって……綺麗な人なんでしょ?」  岡のことを話しているだけで、涙がこぼれてくる。  悲しくて悲しくて仕方がなかった。  これも薬のせい?  泣いている吉田の目元を、安齋の指がそっと撫で上げてくれた。 「お前、本当にバカか」 「だ、だって」 「お前と、おれはお前を手放したことはないが? 四六時中一緒にいて、おれがいつ岡と会っているというのだ?」  安齋はぶっきらぼうな調子で、そう言い切った。 「でも……」 「それに岡に『綺麗』とか、『可愛い』なんて言葉は似つかわしくない。あいつは男だからな」 「か、彼女……じゃないんですか……?」 「あいつの言葉とおれの言葉。お前はどちらを信じる?」  ――それはもちろん。  目と瞑ると、それを合図にするかのように、安齋の唇が重なった。  待ちわびていたその感触と味。  鼻から抜けている声は自分の声ではないみたいに甘い。  今までかつて、安齋とのキスをこんなにいいものだと思ったことはないのではいだろうか。  その理由は一つしかない。  それは、。  いつもひどいことをされる。  手荒く扱われる。  嫌いだと思っていたはずなのに、今は心から安齋が欲しいと思った。 「お前はおれが好きだろう? 吉田」 「――ああ、おれはきっと」  いつもだったら否定するはずの言葉なのに、吉田は安齋の頬に手を添えた。 「おれは。安齋さんが好きみたいです」 「キスは?」 「好きです。安齋さんのキスが好き」  腰を撫でていたはずの指先が、腰から下に入り込む様に、それだけで心が躍る。  ――触って欲しい。撫でて欲しい。もっと安齋さんが欲しい。 「繋がりたい……」  安齋の耳元でそう囁くと、安齋の口元が歪む。 「いいだろう。おねだりが上手になった」  ――きっと薬のせいだ。こんなの、きっと。薬のせい……。    吉田は朦朧とした意識の中、ソファに躰を預けた。  左腕の上、その内側の柔らかい部分の傷を舌で舐め上げられるとたまらない気持ちになった。  そこには彼の噛み跡がついている。  最初その傷は、安齋との関係性を突きつけられるもので、意識するだけで恐怖に駆られたものだが、今はどうだ。  自分の躰は彼だけのものであると自覚したことで、支配されている恍惚感に襲われた。 「安齋さんのものにしてください」 「なにを今更。お前はとっくにおれのものだろ? 吉田」  ああ、おれは。きっと、ずーっと安齋さんのことが好きだったんだ……。

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