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享楽だけが人生か Ⅳ

逃げている。知っている。でも怖かった。本当のことを知っているから怖かった。だから知らない振りをした。それは許されないことだったけど、怖かった。本当に怖かったから、だからいつも逃げていた。真実に目を向けて、その存在を手で確かめるほど、上手くは出来ていなかった。 「う・・・うう・・・」 暗い部屋にひとりで蹲って、耳を塞いでいれさえすれば良かった。何も知りたくなかった。怖かったから、逃げていたかった。嬉しいのか許せないのか恐ろしいのか、分からないからただ悔しい。涙が止まらない。守っても救ってもやれなかった。そんなことをまた彼は望んでいないようだった。肝心なことは何も言わないで、ただいつも笑っているだけだった。そうやってはぐらかして、泣くのはいつも自分だ。 春樹は自分の部屋の畳を拳で叩いた。夏衣に向けた感情はいつだって、夏衣まで届かなかった。そんなことは望んでいない、では一体、夏衣の望んでいることとは何だろう。如何すれば良いのだろう。どうすれば彼をあそこから守って、救ってあげられるのだろう。いつだって考えていた。昔は寂しい目をして、あんなふうに笑わなかった。春樹は泣きながらそれを、いつだって考えていたのに。 嫌いだ、なんて嘘だ。 「春樹」 不意に襖が開けられて、暗い部屋に光が指した。春樹は涙を左手で擦った。振り返る気分にはなれなかった。そこに立っている人を知っている。襖が閉じられ、また部屋は暗闇を取り戻す。すたすた歩く音がして、自分の後ろでぴたりと止まった。 「また泣いているの」 「・・・秋乃」 ゆっくりと春樹は振り返った。外回り帰りの秋乃は黒いスーツのまま、春樹の側に立っていた。秋乃は春樹と夏衣の姉、「白鳥」本家の長女である。現状で白鳥における権限を当主の次に握っているのが彼女だ。秋乃は溜め息を吐いて、俯いたままの春樹の側に腰を下ろした。先刻帰って来たのだろう、鞄も持ったままだった。 「・・・夏衣さん帰って来たんだってね」 「あぁ」 「私には会って下さらないのかしら」 「・・・さぁ」 「春樹は会ったんでしょ、どんな感じだったの」 「・・・何で、アイツ帰ってくんの」 「・・・」 「東京に居ろよ、何で帰って来るんだよ・・・」 「春樹」 「何だよ・・・」 「夏衣さんの意思じゃないのよ。夏衣さんがこっちに来たいわけないじゃない」 「・・・」 「あいつのせいよ。知っているでしょ」 「あいつ」本元の二人がその名前を濁す「白鳥家」当主の存在。春樹はもう一度涙を拭った。何もかも、当主様と皆が崇め奉る男のせいだった。秋乃も知っている。自分も知っている。そうして夏衣も。充分に分かっているが、だからどうしようもないのも事実だった。 「・・・当主様・・・当主様・・・か」 「春樹知っているでしょ。あんただって呼ばれたことあるんだし」 「・・・俺は・・・違う」 「・・・何が違うの」 「あいつは何にもしなかった。俺じゃ駄目だって、兄貴じゃないと意味無いって」 「・・・そう」 知っている。だから無性に怖かった。そこから先の言葉を予想する。とても言葉に出来なくて、秋乃は目の前の震える春樹の肩を抱いた。弟はこんなに小さい。どうしてこんなに小さいのに、こんなに苦しまなくてはいけないのか。ここはいつもこうだ。昔から怯えてばかりいたような気がする。真実からはそうやって遠ざけられてきたのだ。秋乃は息を呑んだ。言わなければいけないことは分かっていた。春樹の唇が震えている。 「でも・・・知っているでしょ」 「夏衣さんはお父さまに呼ばれて一体何をしているの・・・?」 「知っているんでしょ、春樹」 暗い部屋、そこに蹲って春樹は目を塞いで居れば良かった。耳を塞いで居れば良かった。何も見なければ、何も聞かなければ、何も知らなければ、それで良かった。自分を守る方法を、春樹はそれでしか知らなかった。だからそうしていた。ずっと、ずっと。 「・・・あいつは俺を部屋に呼んで、つっても使用人無しじゃ立ち上がれないような体だけど・・・」 「変だと思ったんだ。兄貴が随分帰ってこない夜だった。アイツの部屋にはアイツひとりだった。アイツはそこから俺のことを呼んだ。春樹か、こっちに来い、と言った」 「・・・それで、それから・・・」 それから。春樹は喉を詰まらせた。この家の住人が声を揃えて「当主様」と崇めるその存在、春樹や秋乃から見れば祖父に当たるその男、その男のことを白鳥の血を引くものは「お父さま」と呼んでいる。高齢のため、一人で寝室から出られないような体をしているが、白鳥を統率する人間であることに変わりは無い。 「・・・アイツが脱げと言うから、俺は服を脱いだ。あいつは俺の体をべたべたと触って、あ、兄貴じゃなきゃ駄目だなって・・・顔は似ているけどお前じゃ全然駄目だなって・・・そう、言った・・・」 「・・・春樹」 「なぁ、秋乃。俺は分からないよ。何で兄貴なんだ、何で俺じゃ駄目なんだ・・・何でいつもいつも・・・兄貴ばっかり酷い目に遭うんだ・・・」 「・・・春樹、もういいよ。もういい」 「俺じゃ駄目なん、だって、何で、俺が・・・俺が出来ることなんてそれぐらいのことしかないのに・・・兄貴の代わりなら、それで兄貴が苦しまないで良いのなら、俺は喜んでアイツに・・・」 「やめて、春樹。もうやめて、お願いだから、もういいよ。御免、泣かないで」 その日、「当主様」の前に一人で立って痛感した。この男には敵わない。敵わない。黙って平伏すことしか出来ない。気持ちが悪かった。本当に気持ちが悪かったけれど、言われた通りにするしかなかった。絶対的権力を振りかざして、あの男はここに生きている。同じところに息衝いている。 「・・・秋乃、何も出来ない。俺は何も出来ないで逃げた。兄貴が苦しんでいるのを知っていた。でも何も出来なかったんだ」 「・・・春樹は悪くないよ。私だってそうだ、そうだよ。何も出来ない」 「・・・」 「夏衣さんも、何も出来なかったんだよ」 その日、夏衣が何を思ったのか知れない。夏衣は何も語ろうとしないから、誰にもその真意は分からない。唇に笑みを湛えて、その目は何も映さない。

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