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享楽だけが人生か Ⅲ
「御待ちしておりました」
仰々しく頭を下げる。その全てがここの使用人。夏衣は先頭の黒服にスーツケースを渡すと、颯爽とその間を歩いていった。回遊式の和風庭園を暫く歩くと見えてくる。随分と年季の入った古い日本家屋。そこが過去の夏衣の住んでいた「白鳥家」である。帰ってくるのは一ヶ月ぶりほどだった。見上げる。その佇まいは全く変わっていないようだった。
「夏衣様」
「・・・」
「お部屋、御用意出来ております」
夏衣は「白鳥」の本家であるここの長男だった。幼い頃から大人という大人に頭を下げられて、ここで生きていた。昔からそうだった習慣は、中々体から抜けきらない。頭を下げる自分より年上であろう使用人に微笑んでそのまま、夏衣は白鳥の中に入って行った。ここは広いだけで住人の姿はなく歩く人は皆使用人だった。
「何も変わったことなかった?」
「ええ、特には」
「そう。春樹 は?」
「中でお待ちで御座います」
「秋乃 ちゃんはまだ外かな」
「そうですね」
少し前を歩いていた夏衣の世話係筆頭である徳川が、さっと襖を開けた。夏衣はそれに軽く会釈をして部屋の中に入る。畳の上に立つといつだって昔のことばかり思い出した。
「お食事は何時頃なさいますか」
「皆と一緒で良いや」
「はい、畏まりました」
襖が閉められる。夏衣は溜め息を吐いてネクタイを緩めて、スーツを脱いだ。箪笥の中には夏衣の着物がきちんと整頓されている。一番上に置いてあった淡い紺の着物を取り出すと、夏衣は慣れた調子でそれを身に纏ってスーツをハンガーに掛けた。部屋の奥には夏衣の持って来たスーツケースが置かれている。
「兄貴!」
どたばたと音がして、襖が遠慮なく開けられた。夏衣が振り返ると、弟の春樹が立っていた。春樹は肩で息をして、ぱっと顔を上げた。
「おはよう、春樹」
「・・・おかえり」
春樹の顔は夏衣と余り変わらない。夏衣と同じような薄い色の髪の毛に桃色の目をしている。二つしかかわらない夏衣と春樹は双子のように育っていた。夏衣はプラチナに住んでいるが、春樹はまだ白鳥に厄介になっている。自分が帰ってくるたびにこうして出迎えてくれる弟を、夏衣はいつも可愛がっていた。
「聞いたぜ、相原のこと」
「・・・あぁ、紅夜くん」
「何だってあんな端っこのこと気に掛けるんだよ」
「あの子は可哀想な子だよ。天蓋孤独だ」
「だからって白鳥に引き抜くなんて可笑しいだろ」
「別に白鳥に引き抜いたんじゃないよ。「プラチナ」で一緒に住んでるだけだ」
「あっそ」
「春樹は何も変わったことなかった?」
ちらりと夏衣が春樹に視線を戻すと、春樹の顔が一瞬強ばって見えた。しかしすぐに元に戻すと、春樹は首を振った。使用人がいつもよりやけに騒がしい。夏衣が帰って来たからだろうか。
「何も無い。何も無いよ」
「・・・ならいいけど」
「あ、もうすぐ秋乃も帰ってくるからさ」
「秋乃ちゃんも元気?」
「おう。今日は兄弟三人でぱぁっと飲もうぜ!」
「秋乃ちゃんはお酒嫌いじゃなかった?」
夏衣がそう言って笑った時、失礼します、の声とともにぱっと襖が開かれた。奥には使用人がひとり、頭を下げた格好のまま跪いている。
「斉藤?」
「夏衣様、当主様がお待ちで御座います」
嫌な予感がした。
「斉藤・・・てめぇ!」
「分かった。すぐに参ります」
「兄貴!」
「宜しくお願いします」
すうっと音を立てずに襖は閉まった。その奥で斉藤が立ち上がり、行ってしまう足音が僅かに聞こえた。春樹は斉藤の胸倉を掴んでいた手を、握り締めて振り返った。夏衣は俯いていたが、不意に顔を上げて立ち上がった。そうして春樹の方を向くと、にこりと笑った。
「御免ね、春樹。兄弟三人でぱぁっと飲む機会はまた別になりそうだ」
「・・・兄貴」
「秋乃ちゃんにも宜しく言っておいてね」
「・・・」
夏衣がやけに静かにそう言うので、春樹は怒鳴る準備をしていたが、それを上手く交わされたような気になっていた。浅はかだったのかもしれない。夏衣の自分と余り変わらない背中を見つめる。悲しかったし、とても許せる状況ではなかった。ただ、それ以上に悔しかったのだ。夏衣は何も言わせない。
「何でだよ」
「・・・」
「ずっと「プラチナ」に居ろよ、お前なんか!」
「・・・」
「帰ってくんなよ!そんなに白鳥が大事なのかよ!」
「・・・」
「クソ馬鹿!兄貴なんて嫌いだ!」
春樹はそう言い捨てて、襖を豪快に開け行ってしまった。夏衣は開けられたままの襖から見える中庭を見ていた。何も言うことはなかった。言えばそれだけ、また彼を傷つけてしまうから。
「御免ね、春樹」
だから夏衣がそれ以上語ることは無いし、春樹もそれは分かっていた。二人は昔から一緒に、双子のように育てられてきた。だからこそ分かり合える。そう思って、そう信じて生きてきた。だからその時、誰かが二人の間を裂くことになるなんて、そのせいで二人が全く違う人生を歩むことになるなんて、二人とも考えたことも無かった。
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