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享楽だけが人生か Ⅵ
夜だった。今日の食事にも夏衣は現れなかった。もう二週間もあの部屋に入ったまま、出てこない。帰ってきてすぐだった。春樹と少しだけ話をした後、使用人がやって来てそれだけだった。春樹はぼんやりと外を見ていた。秋乃は酷く落ち込んでいるようだった。男色のあの男がまさか秋乃に手を出すとも思えないが、今まで夏衣、春樹だっただけで、男色かどうかも疑わしかった。そう思うと、いつだって春樹は居た堪れない気持ちになった。男の自分でこうなのだ、秋乃がまさか堪えられるとは思えない。
使用人ですら寝静まった夜は、随分静かだった。春樹ももうそろそろ明日に備えて休もうかな、と立ち上がったとき、廊下の奥から誰かがやって来る気配がした。ひた、ひた、と廊下を裸足で歩く音がしている。何だかその音は随分恐ろしかったが、春樹はその暗闇に目を凝らした。
「・・・あに・・・き?」
薄紫の着物を着て、暗闇から姿を現したのは夏衣だった。夏衣は一点を見つめて、ひた、ひたと歩いている。まるで春樹のことなど見えていないようだった。春樹はその動く影をじっと見つめた。夏衣は何も言わない。その目は空ろで、何も映していない。
「兄貴!」
「・・・春樹?」
「ど、どうしたんだよ、ぼんやりして」
「・・・御免ね、俺お父さまに呼ばれているから急ぐよ」
「ちょっと待てよ!」
そうだ。こういうときの夏衣は、口を開けばそう言って、少し笑った。何がおかしい、何を笑っている。春樹は夏衣の腕を掴んで引き止めた。布の上から掴んだ腕が、やたらに細くて春樹は驚いた。夏衣を見上げる。夏衣は何も言わない、こちらの反応を待っているようだった。
「・・・なぁ、兄貴」
「・・・」
「もうやめろよ、もういいよ。逃げよう、あいつが怖いならあいつの目の届かないところに逃げよう」
「・・・」
「俺と、秋乃も行く。皆で逃げよう、兄貴」
「・・・春樹、お父さまのことをあいつなんて言っちゃいけないよ」
「兄貴!」
夏衣は春樹の手を逃れて、ゆっくりとした足取りで暗闇のほうに向かって行った。そんなことは出来ないことぐらい、春樹には分かっていた。でも他に方法が無かった。如何すれば良いのか、考えても、考えても分からなかった。春樹はまた泣き出しそうになる目をぎゅっと瞑った。やっぱり自分はこうなのか、目の前に夏衣がいたって、何も出来ない。その思いだけ抱えて、何も出来ない。
「アイツの慰み者にされて、兄貴はそれで良いのかよ!」
「・・・」
「俺は嫌だ!絶対嫌だ!」
「・・・大丈夫」
不意に夏衣が振り返って、春樹は吃驚した。夏衣はいやに美しく微笑んでいた。
「春樹のことは俺が守ってあげる」
「・・・」
「だから大丈夫、安心して」
「・・・―――」
いつも泣いていた。昔から自分は何も出来ないくせに、いつも涙ばかり流していた。だからその時も春樹はそこに崩れて、そのまま泣き出してしまった。夏衣はそれを見ながらまた少し笑って、今度こそ振り返らずに行ってしまった。何も出来ないと思っていたのは一体何だったのだろう。救いたかったのは誰だったのだろう。また泣いているのは自分のほうじゃないか。
「夏衣、帰ってこねぇな」
実家に帰る、そう言って出て行った夏衣は、もう一ヶ月が経つのに帰って来なかった。談話室で紅夜は勉強し、京義はどうでもいい小説を読んでいた。最近分かったことだが、京義は大して勉強しなくてもいい成績が取れるらしい。余り勉強しているところを見たことが無い。
「・・・そう言われればそうやね」
「ホテル放置で何やってんだろうな」
「んー・・・でも積もる話でもあるんちゃうの?」
「積もる話?」
「うん。そらあるやろ」
「・・・でも夏衣、よく実家帰ってるぞ」
「へぇー・・・でも実家が白鳥やもんなー・・・」
「・・・だったら何だよ」
「あそこにおったら何もせんでええんやで、そら長く居たくもなるで」
「・・・ふーん」
そんなものか、京義は特に興味の無い声でそう返事をした。実際、紅夜の返答にもその内容にも大して興味も無かった。すると不意に談話室に一禾が入ってきた。一禾はさっきまで玄関の掃除をしていたはずだ。染は自室でレポートを書いているらしい。
「どないしたん、一禾さん」
「ナツが帰ってきたよ」
「え、嘘ぉ!」
「・・・」
一禾は何でも無いように淡々とそう言って、紅夜は大袈裟すぎるほどに驚いた。京義は勿論、一禾にちらりと目を向けただけで、何も言わなかった。一禾の後ろから、夏衣は出て行ったときと同じ様相で姿を見せた。
「ナツさん!おかえりなさい」
「わぁ、有難う。そんなこと言ってくれるのは紅夜くんだけだよ!」
「・・・ナツ、抱きついたら警察呼ぶよ」
「分かってるよ、一禾」
「分かってるなら良いんだけどね」
「一禾もそんなこと言って、ホントは俺のこと待っててくれたんだよね・・・」
「・・・何処をどうとったらその解釈になるのか、本気で知りたいよ。俺は」
夏衣の様子は出て行ったときと同じだった。紅夜はそれを見ながら、何となく幸せな気持ちだった。こうして皆でふざけているのがいつも楽しかったから、何だか妙に嬉しかったのだ。それから騒々しい下の様子を察した染も降りてきて、久しぶりに談話室に皆が揃った。
「おー、ナツ帰ったんだ」
「ただいまー。染ちゃん!」
「おかえり・・・折角平穏だったのにな・・・」
「染ちゃん、何か聞こえたけど」
「本音が口から出たんだよね」
「ま、気にすんなって、ナツ!」
「えぇー・・・そうなの?」
夏衣が実家のことを話すことは無かったし、皆も聞くことは無かった。紅夜が話すまでは、白鳥が一体どういうところなのか、京義も知らなかった。楽しそうに話す夏衣を見ながら、それならどうしてこちらに戻ってくるのかなんて、そんなことを聞くのは止めにした。紅夜じゃなくても、一禾じゃなくても多分、皆ここが帰るところだと、無意識のうちに認識してしまっているのだろう。どうでもいい小説はそろそろどうでもいいクライマックスを迎える。
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