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享楽だけが人生か Ⅶ

12時を少し回っている。京義は夏衣の部屋の扉を、ノックとは程遠いニュアンスで叩いた。暫く返事は無い。ばしばし叩いていたが、面倒になってドアを勝手に開けて中に入った。風呂にでも入っているのか、でも部屋の風呂は滅多に使わないし、と京義は考えていたが、夏衣はダイニングテーブルに座っていた。 「おい」 「・・・あぁ、京義か・・・」 「一禾じゃなくて悪かったな」 「・・・別にそういう意味じゃないよ。俺は皆が好きだよ」 「あっそ」 そんなことはどうでも良かった。京義は夏衣の正面に勝手に座ると、夏衣の飲んでいたコーヒーを飲み干した。夏衣はぼんやりと斜め上を見ている。一体何を見ているのだろうと思ったが、視線の先には何も無かった。夏衣は空になったカップを持ち上げ、キッチンのほうに向かった。 「白鳥ってさ」 「・・・え?」 「凄いんだって、相原が言ってた」 「・・・へぇ、紅夜くんが」 「入ったことあるんだって、アイツマジでお前の親戚だったんだな」 「はは、何心配してるの」 夏衣はカップを二つ用意して、お湯を入れた。京義の意見は聞かずに、コーヒーの粉を注ぐ。見ているうちにカップの中は黒々としてくる。それを持ってテーブルに戻った。京義はどうでもいい小説を持ってきていて、それを開いて読んでいるようだった。夏衣は京義の側にカップを置いて、自分の分を少し飲んだ。京義は最近良く話すようになった。昔は何を聞いても何も言ってくれなかったが、最近は自分から色々話すようになった。学校のことも話すし、紅夜のことも話した。京義は少し、変わった。 「・・・夏衣?」 「変わったね」 「は?」 「京義は随分明るくなった」 「・・・」 「・・・誰のせいだろう。紅夜くんかな」 「・・・別に、誰のせいでもねぇよ」 「そう?」 「もういい。早くしようぜ」 「・・・」 夏衣の注いだコーヒーを飲まずに京義は立ち上がって、ティーシャツを脱いだ。夏衣が何にも言わないので、変に思った京義が振り返ると、夏衣はテーブルに寝そべっていた。飲んでやらなかったので拗ねているのかもしれない、京義はそう思ったが、そんなことは何度もあったので慣れていた。夏衣に近づいて、その頭を軽く叩く。 「おい」 「・・・京義、お酒」 「は?」 「お酒、お酒が飲みたい」 「・・・酒?お前酒なんて飲んだっけ?」 「お酒が飲みたい、京義」 「・・・」 「・・・京義」 腕を掴んで彼。甘えるように名前を呼んで、髪で隠れて顔は見えなかった。掴まれた腕が余りにも細い。成人男性には思えないように細い。夏衣はこんなに細かったのか、京義はその手首を見ながらきっとホテルの中に酒は無いから、買って来なきゃいけないと思いながら、さらさら流れるその淡い色をした髪を撫でた。弱っているその人が、弱っている意味なんて知らなかったが、何だか妙に愛しくて、何だか妙に切なかった。 頭がガンガンしている。頭の中で鐘がガンガン鳴り響いている感覚だ。京義は目を覚ました白い部屋で、暫くぼんやりしていた。隣には夏衣が小さく蹲っている。眠っているのか起きているのか分からない。部屋には乱雑に、夜中にコンビにまで買いに走った酒の空き缶が転がっている。夏衣は綺麗好きだし、まず部屋が汚れているなんてことは無いが、その日に限ってそこは酷かった。 「・・・頭いて・・・」 付き合った京義も相当の量を飲んだ。酒に抵抗は無かったが、二日酔いのことは全く考えていなかった。京義はもう一度床に寝そべって白い天井を見上げた。今日が何曜日か分からないが、今日の学校は自主休憩だ。そっと隣で蹲っている夏衣に目を向けた。目は瞑っている。寝ているのかもしれない。大人になったらこの頭の痛さや気分の悪さはなくなるのだろうか。 (荒れてた・・・昨日) 京義にはそれが何と言って良いのか分からなかった。だから「荒れていた」と昔のことのように思った。いつもへらへらしているから分からない。だけど時々、夏衣はこうやって荒れて見せた。その時、京義はどうしたら良いのか分からなくて、言われるままにすることにしている。歩いて30分もかかる山道を、缶ビールの重い袋を三つも持って歩かされたって、夏衣が我侭を言うのは珍しいから、それに付き合ってあげることにしている。京義の周りの大人はいつだって傍若無人で自分勝手だった。 夏衣は京義の記憶と同じところに同じように蹲っていた。頭はまだ痛いし、気持ちも悪い。京義は夏衣の側に寄って、そこに腰を下ろした。見れば頬に涙の後がこびり付いている。そう言えば、酒を飲みながら夏衣が途中で泣き出したような気がした。昨夜の記憶は曖昧だ。テレビを見ていたような気がするけれど、起きた時、黒い箱は黒い箱のままだった。 (大人って・・・泣くんだ) 時々どうしようもなくなる夏衣のことを、時々どうしようもなく愛しく思う。それは恋愛感情とか、そんなものではないと思うが、何となく京義は夏衣の側を動けなかった。こうして駄目になる大人を、京義は夏衣以外に知らなかった。だからかもしれない。不意に夏衣が寝返りを打って、少し目を開けた。ずれた眼鏡が顔の上に乗っている。京義は何をすることも無くそれをじっと見ていた。 「・・・けいぎ」 「なんだよ」 「あたま、いたい」 「俺も痛ェよ」 「・・・あはは、未成年にお酒飲ませちゃった」 「・・・」 ベッドがあるのに床にそのまま寝ていたせいで、起こした体は随分痛かった。夏衣は体を起こして、眼鏡を戻した。部屋は随分静かだった。 「ねぇ京義」 「なに」 「俺、昨日何か言ってたかな」 「さぁ」 「良く覚えてないんだけど」 「俺も覚えてない」 「ああ、そう」 なら良いんだけど、そう言って夏衣は少し笑った。何が良いのか京義にはさっぱり分からなかったけれど、それを見て少し、元気になったのかなと思った。そんなことは京義には関係の無いことだった。京義は欠伸をして、奥のベッドに寝転がった。頭は痛いままだ。気持ちは悪いが、少しはましになったかもしれない。 「・・・京義?」 「・・・」 「なに、寝ちゃったの?京義?」 「・・・」 そんな短時間で眠れるわけがないだろう、と思いながら京義は夏衣の声を無視していた。するとふわりと頭に体温。 「御免ね、有難う」 大人は謝ったり慌てたり泣き出したり、色々と面倒臭い生き物だ。そんな風に言われたくてやったことじゃないと、うとうとしながら考えていた。

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