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刺さったままの棘
「ねぇ、のぞみちゃん」
「なに」
「俺時計が欲しいな、新しい時計」
「えぇー・・・この間買ってあげたじゃない」
「だって染ちゃんが欲しいって言うからあげちゃった」
「何それ、他の子に頼んでよ。あたしは駄目」
黙認。黙っているわけではないけれど、女の子は時々、どうしてこうなのかなと思うほどだ。一禾は寝返りを打って、彼女に背を向けた。外は随分と暗いが、時間的には朝が近いはずだ。暗がりに目を細めて一禾は考える。彼女に貰った何というブランドだったか忘れたその時計は、染が酷く興味を持っていたからあげてしまった。一禾の手首には銀の細身のブレスレットが付いているだけだ。
「じゃぁ玲子さんに頼もうかな」
「そうしなよ。お嬢様なんでしょ。金持ちの考えることは分かんないわね」
「そうだね。俺もそう思う」
そう相槌を打ちながら、皆は今頃何をしているのだろうと考えていた。ちゃんとご飯を食べていたら良いけれど、またカップ麺大会とか何とか言って、変な催しものを開いているに違いない。唇が歪む。少し笑うと、彼女が後ろで不思議そうな声を出した。
「あのひと俺のこと綺麗にしたがりだから」
「へー、一禾はこれ以上綺麗になるのかしら」
「なるよ」
「はは」
一禾の髪の毛を後ろから指に絡めて、彼女は笑った。玲子に頼めば何でも買ってくれることは分かっていたが、だからこそ余り頼まないようにしている。今度は早く帰らないと、きっといけない。一禾はベッドから起き上がった。壁にかかった時計を見上げるともう朝方だった。
「・・・帰ろうかな、俺」
「えー・・・何か怒ってんの」
「別に。玲子さんのところ行って来る」
「あっそ。じゃぁ暫くね」
「・・・のぞみちゃん」
ベッドの端に落ちていたシャツは、一禾の知らないブランドのものだった。それに袖を通しながら、彼女を見下ろす。彼女は適当に返事をして、少し膝を丸めた。一禾は自分の寝ていたせいで跳ねた髪の毛を撫でて、携帯を尻ポケットに押し込んだ。
「じゃぁね」
いつもそうだなと思う。いつもじゃぁねと笑う一禾には何も言えない。その背中をただ少し見つめて、溜め息を吐くだけ。一禾は可哀想だと思う。可哀想な恋愛をしていると思う。何となく誰かに似ている。でもそれが誰か分からない。一禾を纏めて全部、愛してくれる人が居れば良いのに。じゃぁねとあんなに寂しく笑うくらいなら、こんなこと止めにしたら良いのに。
人が好きなのだと一禾は言っていた。出来ることなら好意を寄せてくれる人全員に、ちゃんと笑ってあげたいのだと一禾は言っていた。一番大事な人が振り向いてくれないのを知っているから、一禾はそういう痛みを知っているから。でもそれは優しさなのだろうか。でも、もしもそうではないとしたらそれは一体何なのだろう何て、多分誰にも分からないことだ。
ガレージには見慣れない車が止まっていた。マンションの地下は全て入居者用のガレージになっていて、番号がそれぞれ決まっていた。玲子の車の隣に、いつも一禾が車を止めていたスペースが今日に限って埋まっている。一禾は車を回転させて地下を出た。
(帰って来てんだ)
そんなことはどうだって良かった。別に他に宛なんて一杯あった。信号が赤になって、一禾は車を止めた。横断歩道を渡る人をぼんやり見つめる。どこにしようか、考えていると窓をこんこんと叩く音がした。一禾はふとそちらに視線をやった。
「・・・京義」
スーツの京義が立っていた。バイトの帰りかもしれない。京義は何も言わなかった。一禾は助手席の扉を開け、京義は当然のように車の中に入って、扉を閉めた。シートベルトを引っ張って、かちり、音がした。信号が青に変わって、歩行者が目の前を走っていく。
「・・・お疲れ」
「おー・・・」
「何、バイトの帰り?」
「うん、そう」
京義はおおよそ似つかわしくないネクタイを緩めて、シートに深く座った。京義が居るならホテルに帰らなければならない。一禾は流れる光を見ながらそう思った。京義に少し目を向けると、目はぱっちりと開いていて、眠そうでもない。いつもの京義らしくなかった。
「お前は?」
「・・・え、っと。俺は・・・」
「あっそう。ふーん・・・これから次の予定?」
「・・・その予定だったんだけど・・・ね」
「良いけど、俺は別に」
「というわけにも。ホラ道徳的にね」
あぁ、そう、と京義は面倒くさそうに返事をした。京義のことを一禾は良く分からない。京義が言葉少なに語ることの節々に、時々棘のようなものを感じるくらい。京義は自分のことを嫌いなのかもしれないと思っていた。でもそれは勘違いだと、今は分かる。
「今度はどれくらいで帰るわけ」
「・・・うーん・・・でも、まぁすぐに帰るよ。学校もあるしね」
「そんなに嫌なら止めたら良いのに」
「嫌じゃないよ。俺は染ちゃんのこと好きだからさ」
「・・・」
一禾がそう言うと、京義はふいっと目線を反らせて窓のほうを見た。その横顔は真っ白い、瀬戸物のようだった。きっと触ると冷たいのだろう。
「御免ね、京義」
聞こえたか知れない。京義は何も言わなかった。小さい声でそう、伝えるのが精一杯だった。どうすれば良いのかなんて、誰にも分からないなら、自分だけは分かれば良いのにと思った。冷たい窓ガラスに額をつけて、京義の肌からどんどん体温が消えていく。そこに触れたらきっと、冷たいのだろうなって。
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