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飛べない三千世界の鳥 Ⅰ
その時、自分はひどい形相をしていたらしい。
「夏衣様」
迎えてくれた使用人は眉ひとつ動かさずに、急に現れた夏衣に驚くこともしなかった。きっと折り込み済みのことなのだろうと考えていても仕方がない。広い玄関には見慣れた紅夜のスニーカーがぽつりと置いてあり、その存在を隠すこともしなかった。ホテルの人間に興味がないことは分かっていたし、何となく手を出してこないことも分かっていた。そういう風に言われたことは一度もなかったけれど、高を括っていた。自分が上手くさえやっていれば、白鳥のいうことを聞いていて、機嫌を損ねていなければ、おそらくこちらの領域には手を出してこないだろうことは分かっているつもりだった。
「お待ちしておりました」
「お父様いる?すぐ会いたいんだけど」
「お待ちください」
白鳥が自分に会わない選択をするわけがないことは分かっていたけれど、夏衣はそこで焦った声を出さざるを得なかった。使用人は音もなく立ち上がって、長い廊下を振り返らずに歩いていく。まるで夏衣がその後をついていくことが分かっているみたいだった。
「夏衣様」
後ろから声がして、それが白橋の声であることに気が付くまでまた少し時間がかかった。そういえばここまで白橋を連れてきたのだった。本当は白橋は東方支部の人間だから、本当ならばこんなに遠くまで連れてきてはいけないのに。白鳥に何か言われるのも面倒くさかった、そんなことで。
「ごめん、青磁。俺、お父様に会ってくるから」
「俺も行きます、そこまで」
「ごめん、大丈夫。それより紅夜くん探して。この家のどこかにいるはずだから」
白橋が何か言いたそうに唇を動かしたけれど、夏衣はその先の言葉は許さなかった。きっとそれ以上白橋が自分に反論してこないのも、何となく予想がついたかもしれない。夏衣と白橋がこそこそ話している間も、使用人はまるでそんなこと見えていないみたいに、すたすたと先を歩いていく。夏衣はそれに追い付かなければいけなかったし、自分の家であったけれど、彼らと同じようにこの家で迷わずに目的地まで辿り着くことは難しかった。白橋が足を止めて、夏衣の言葉に何かを飲み込みながら頷く。
「頼むよ、青磁」
この毒ガスみたいな空気の中、誰が自分の味方をしてくれるのか、夏衣には区別がつかなかった。白橋だって夏衣に忠誠を誓っているわけではない。もしかしたら急に裏切られることもあるのかもしれないけれど、夏衣には脆くてもそれにすがるしかなかった。
「夏衣様」
やや早足になる夏衣の背中に、白橋の声がぶつかって止まる。
「夏衣様、ご無理は、されないでください」
泣きそうな目をして白橋がそこに立っている。夏衣に見捨てられた犬みたいに、不安そうな表情で固まったまま立っている。白鳥の人間は全員、自分の味方をしているふりをしていても、白鳥の指先の形が変わればきっと相手が夏衣だったとしても簡単に裏切るし、簡単に刺してくる相手だと知っているけれど、そんな顔をされては情も湧く。こんな感情自体、無意味だと分かっていてもまだ。
廊下を幾つも曲がった先に、白鳥の部屋があった。夏衣はひとつ前の部屋まで案内してくれた。名前も知らない使用人が頭を下げて下がっていくのをぼんやり見送りながら、畳の上に座って声がかかるのを待っていた。白鳥は最近体調が芳しくないらしいと誰かが言っていた。確か卯月も同じようなことを言っていた。それが確かな情報なのか、不確かななのか分からない。ただ夏衣の目には、いつも白鳥は同じように見えた。白鳥が幾つなのか知らないが、起き上がれないくらいに具合が悪いのに、若い体に欲情する姿は夏衣の頭の中をいつもぐちゃぐちゃに掻き回して、何が正しくて何が間違っているのかを曖昧にさせる。
「夏衣様、お待たせしました」
部屋にひょっこり現れたのは白鳩だった。紅夜を連れ去ったのは白鳩だったと聞いていたが、そんなことはまるでなかったみたいに、爽やかな笑顔を張り付けている。この場所で夏衣がそれを、白鳩に突きつけることができないことを、知っている顔だった。
「・・・鳩ちゃん、久しぶり」
「お久しぶりです、夏衣様。お元気そうでなによりです」
夏衣の視線の延長線上にいる白鳩はにこにこ笑いながら、奥の部屋の襖に手をかけた。夏衣と世間話をするつもりは白鳩にはないようだった。
「白鳥様、夏衣様がお見えでございます」
そうして開けられた部屋の奥に、白鳥は深く腰かけていた。珍しく側近は誰もおらず、白鳩だけのようだった。具合が良いようにも悪いようにも見える。つまり夏衣の目から見たら白鳥はいつも通りだった。気だるそうな表情で、高座から夏衣のことを見下ろしていた。
「お父様」
「どうした、夏衣。連絡もなく急に帰ってくるな」
「申し訳ありません」
口先だけで適当に謝って、夏衣は顔を上げた。白鳥は冷たい目をして、表情を変えずに夏衣のことをただ見ている。この人が自分のことを本当はどう思っているのか、知りたいような知りたくないような不思議な気分がする。どちらだとしても夏衣は驚かないだろうけれど、どちらでもないような気もする。そんな単純な感情ではなかった、二人の間にあるのは、最早。
「相原紅夜を呼んだのはお父様ですか」
「そんなことか、お前は全く余計なことばかり心配するな」
そうはいかないと思いながら、夏衣はそれ以上は言わない。白鳥は自分の頬を指でなぞって、それから首をゆっくり傾けた。
「鳩、夏衣にばれないように連れてくるんじゃなかったのか」
「申し訳ありません。ご一緒にお住まいなのでさすがに難しいかと」
「言い訳をするな」
言いながら白鳥は少しだけ口の端で笑って、夏衣のすぐ後ろに座っている白鳩も笑ったような気配がした。夏衣が知りたいことは何一つ分からなかったけれど、何となく自分の知らない話をされているみたいで居心地は悪かった。
「心配するな、夏衣。ただ顔を見るだけだ」
「・・・ーーー」
そんなこと嘘に決まっていた。夏衣には嫌でもすぐに分かった。
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