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ムーンライトギミック
『聞きたいことがあるんですけど』
『なに、どうしたん?』
舌打ちが唇の端から漏れて、白鳩は足を止めた。目の前を歩いていた華井が、白鳩の足音が聞こえなくなったのを目敏く察知して止まってこちらを見ている。いつの間にか辺りは暗くなっていて、結局それでもまだ白鳥は部屋の中から出てこられずに、紅夜は部屋に留め置かれているらしい。紅夜をここに届けることだけが今回の仕事だったので、白鳩の仕事としてはもう完遂していたが、何となく悪い予感は続いていて、自分の家まで帰る道のりが随分長く感じた。夏衣が紅夜を追いかけて本家に戻ってきたかどうかも知らない。戻ってきたらどんなことになるか考えただけでも恐ろしかった。白鳩でもまだ、白鳥のことは十分恐ろしかった。
「どうされました?」
「・・・別に。何で分かったんや、あのガキ」
色素の薄い白鳩の目がゆらゆらと行き場がないのに揺れているのを、華井はただ見ていた。白鳩を怒らせるのはよくない方法だったけれど、どうすれば白鳩の怒りを沈めることが出来るのか、華井にも分からなかったので黙っているのが得策でしかなかった。
「前から思っていたんですが」
「・・・なに」
「鳩さんは男性である必要があるんですか?女性のままでも別にいいのでは」
ゆらゆら動いていた目が止まって、それからすっと華井に当たってそれからしばらくは音も聞こえないくらい静かだった。白鳩のスーツもきっと夏衣とは違う意味合いで体より一回り大きく出来ていて、それは白鳩の女性らしい体つきを隠すのには役に立っていた。
「男のお前には分からん」
「・・・はぁ」
白鳥は昔の風習や生業から男子家系だったので、もちろんその周辺の字継ぎの家も男子が重宝されていた。女性が生まれることもあったけれど、彼女たちがどんなに努力をしてもこの家の中で認められることはなかった。それは長女の秋乃を見ていれば分かることだった。そんな古くさいことを、女性よりも男性のほうが優れているなんてそんな根拠のないことが、罷り通っているのが白鳥家だった。白鳩家もそれに漏れず、ずっと長男が家を継いできたけれど、今期生まれたのは女性の白鳩ただひとりだった。
「私が女で父がどんなに悲しんだかお前には分からん。字継ぎでもないくせに偉そうにすんな」
「・・・偉そうなんて」
華井は溜め息をつくみたいにそう呟いたけれど、それ以上は白鳩を怒らせると思ったのか、言わないでいた。幼心に女性であることを家の中で求められていないこと、そして白鳥にも認められていないことを、白鳩は分かっていた。白鷺、白鴇家にも男が生まれているのに、どうして自分の家だけと言いながら涙を流す父の背中にかけてやる言葉が何もなかった時の絶望を、きっと華井には分からない。結局その溝は埋められなくて、ふたりが白鳥について政をやっている間に、自分はこんな雑用しかすることがなくて、惨めだった。自分が女であることに対して白鳥は何も言わないが、そこに明確な線引きがあるのは明らかだった。
「あのくそガキ、私のことを見て女やと分かったんや」
「そう言えば、最近女性と思われること少なくなってきましたよね」
「私がそのために、どんだけ努力してるか分かってるやろ。完璧やねん、完璧なはずなんや」
「はぁ」
「あのくそガキに分かるようやったらまだ私は完璧やないってことなんか」
白鳩が固執しているそれについて、華井は気にしたことはなかったが、そんなことを言えばきっとまた「男だから分からんねん」と言われて不機嫌になることは分かったので、何も言わないほうがよさそうであった。白鳩は紅夜のことをただの白鳥の家系の端の端にいるただの一般人だと思っているようだったが、そうしてそれはほとんど華井の目から見ても真実に違いなかったけれど、その茶色の目はやけに聡明だった。白鳩が口先で少し脅したくらいでは屈しないくらい、強い目と強い意思を持った少年だと思った。夏衣がわざわざ選んで一緒に暮らしている意味こそ、華井には理解できなかったが。
「夏衣様が選んで一緒にお住まいになってるのですから特別な人なのでしょう」
「特別に見えたか?ただのくそガキやないか」
吐き捨てるみたいに白鳩がそう言って、きっとこの人は紅夜が自分のことを一目みて少し話しただけで性別を偽っているのを見抜いた以外の理由で、紅夜のことが気に入らないのだと思ったけれど、他にどんな理由があるのか分からなかった。華井はそもそも相手が一体何を考えているのか、感じることが難しかったし、たぶんそんなに興味もなかった。だからそんなことでいちいち怒ることができる白鳩のことが理解できなかった。どうでも良かった、白鳥と自分のこと以外は全部、華井にとってはどうでもいいことだった。
「特別だったからきっと、鳩さんが男性じゃないことが分かったんじゃないですか」
だから白鳩もそう思えたら良かったのに。そう思えたら少しは楽になれるのに、そう思ったけれど、そんなことを言ってはまた火に油を注ぐだけになりそうなので、黙っていることにしている。華井にとっては自分と白鳥以外どうでも良かったし、どうなってもきっと何とも思わないだろうけれど、白鳩とバディを組まされることが増えて、それなりに白鳩にも情らしきものは沸いていたし、どうせなら苦しむ顔は見たくないと思うほどには、自分に近い人間になりつつあった。
「俺は、鳩さんが女性でも男性でも、そんなこと些末なことだと思いますよ」
自分だってそう思いたかった、華井が慰めみたいにかける言葉で一層胸の表層が焼かれたような気がしたが、華井にそれを言ったところで意味がなかった。
(そう思うんやったら変わってくれ)
(要らんのやったらお前の性別、私にくれ)
努力のかいあって身長は伸びて、筋肉量だって限界まで増やした。大きめの服を着ても髪の毛を短く切っても、そんなことなんの意味もなかった。この狭い世界の中では誰も評価してくれなかった。大切な人が振り返って頭を撫でてくれることもなかった。それどころかそんなことはもういいから、はやく次の男児を産めと言われて惨めだった。まるでそれでしかこの家に貢献できないことを、はじめから分かっていたみたいに。まだできることはあるはずなのに、もう用済みだと言われているみたいで辛かった。
「ホンマやな」
そうやって笑うことしかできないのに、意味なんてほとんどあってないようなものな華井の言葉にいちいち傷ついている自分のことがかわいそうで惨めで嫌いだった。男にさえ生まれていたらこんな感情にはなることはないはずなのに、分かっているのに。
(夏衣様は嫡男として生まれたくせに)
(女みたいに生きてて何やねん、何がしたいねん、いらんのやったら私にくれたらええのに全部)
一番大切な人に認めて貰えないでいることが苦しいことは分かっていた、全部。そんなことは下らない八つ当たりであることだって分かっていた、本当は。
辺りは暗くなってきて、月が辺りを照らすまで、この暗闇はきっと続くのだと分かっていた。
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