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埋めた骨が呼んでいる Ⅶ

結局その日、紅夜が部屋で待っていても当主に呼ばれることはなかった。日が暮れてしまってから女中が布団を敷きに来たので、紅夜はお風呂に入って今日はここで眠らなければいけないのだと嫌でも分からせられることになった。部屋の中央に置かれた布団の中でじっとしていると、居心地は決して悪くないのだが、これからどうなるのだろう、明日はどうするのだろうと考えが消えなくて、紅夜は中々寝付けなかった。 (ホテルにいつ帰れんのやろ、当主様・・・に会わな帰れへんのやろうな) (それにしても何で急に会うことになったんやろ・・・) 明日の学校は休むしかないのだろうが、嵐ともあんな感じで別れてしまって、きっと明日学校に行かなければ心配するに決まっていた。嵐は見た目は不良みたいだが、中身は友達思いの普通の少年だった、少なくとも紅夜の前ではそうだった。頼れるのは京義だけだが、夏衣に上手く説明ができているのも心配だし、明日嵐にきちんと説明してくれるのかも心配でしかなかった。白鳥に逆らえないのは分かっていたからあの場ではそうするしかなかったが、紅夜だっておかしなことだと分かっている。けれどそれを白鳥を知らない誰かに上手く説明できないことも、よく分かっていた。あの場で何も言わなかった京義のほうが、紅夜には怖かった。 (はよ帰りたいな・・・) 勿論、ここには紅夜の知っている人は誰もいなくて、誰と話していても誰とも話していないみたいで、息を吸っているはずなのに胸を刺されるみたいで痛くて、夏衣の実家なのでそんなことを言ってはいけないのかもしれないが、はやくホテルに帰りたかった。 「紅夜くん」 何度目かの寝返りを打った紅夜の耳元で、かすれた声が聞こえて紅夜は体を硬直させた。 「・・・ナツさん?」 慌てて体を起こしてみると、布団の側にいつ来たのか夏衣がちょこんと座っていた。見慣れない淡い色の浴衣を着ている夏衣はいつもの眼鏡をかけておらずに、それはホテルで見る夏衣ではないようで、紅夜は一度ぱちりと音がするまで瞬きをしなければならなかった。見れば部屋の障子が少しだけ開いていて、そこから細く光が部屋の中に入り込んできている。 「ナツさん、なんで」 「ごめんね、遅くなって」 「いや、それは・・・ええんやけど」 夏衣に会ったら言いたいことも聞きたいこともたくさんあったはずなのに、いざ夏衣を目の前にすると、紅夜は何も言えずにただ俯くしかなかった。 「大丈夫?なんか怖いことされなかった?」 「うん・・・俺は大丈夫なんやけど・・・ーーー」 「よかった」 言いながら夏衣はにっこり笑って、それからゆらりと立ち上がった。線の細い夏衣の体を浴衣が上手く隠しているせいなのか、痩せすぎて時々痛々しいくらいの夏衣が、その時ばかりは頼もしく見えたのだから不思議だった。紅夜は布団の上に座ったまま、夏衣に誘われるように視線だけを上げる。 「紅夜くん、ごめんね。朝になる前に東京に戻ってほしいんだ」 「え?」 夏衣は開いていた障子をほんの少しだけ開けて、外を指差した。今何時なのか紅夜には分からなかったが、勿論新幹線が動いている時間は終わっているはずだった。 「なんで、どういうことなん・・・?」 「ごめんね、あんまり時間がないんだ」 「ナツさん?」 聞きたいことは山ほどあったけれど、それを夏衣がこの場で自分に教えてくれないことを、紅夜は何となく分かっていた。思えば夏衣はいつもそうだった。いつも少しだけ説明が足りない。そういうところは白鳥だった。白鳥に似ていると思った。それが何かは知らなかったけれど。紅夜が立ち上がってふらっと吸い込まれるように夏衣が開けた障子の近くに寄ると、廊下のその先に履いてきたスニーカーが置いてあった。それが夏衣の持ってきたものなのか、それとも誰かに用意させたものなのか分からない。 「こっちの庭からまっすぐ走ったら裏口から出られるから。鍵を開けてあるからそこから出て」 「外に出たらすぐ左に曲がって、それからちょっと走ったところに青磁が待ってるから」 いつの間にか夏衣は紅夜の後ろに立っていた。後ろから夏衣が両肩を掴んで、紅夜は振り返って夏衣の表情を見ることもできなくなった。 「いい?裏口から出て左に行ってまっすぐだよ。ごめんだけど俺は一緒に行けないから、迷わないでね」 「・・・ナツさんは」 「俺はまだここに残ってやることがあるから。ホテルに帰ったら皆に帰るの遅くなるって言っておいて」 「・・・ーーー」 紅夜は後ろを振り返ることができなかったから、その時の夏衣の表情は分からなかったけれど、明るい声色に混ざって夏衣が真剣にそれを言っているのは分かった。 「ナツさん」 「ん?」 肩から夏衣の手が離れるのが分かって、紅夜は振り返ることもできたけれど、なんだか振り返ったらその場から動けなくなりそうだったから、前を向いて障子を開けた。 「ナツさん、ホテルに帰ってくるんやんな」 ここで別れたらそれで二度と会えなくなるような、そんな気がして怖くなった。紅夜は月の明かりしか頼れるものがないそこで、スニーカーに足を突っ込みながらできるだけ明るい声を出したつもりだった。着てきた制服や持ってきた学校の鞄のこと、心配することはたくさんあったけれど、そんなことは頭に出てこなかった。 「・・・帰るよ」 夏衣の声は小さかったけれど、それは紅夜の知りたいことに答えるという意味では十分だった。スニーカーに足が吸い込まれた後、紅夜はゆっくり振り返って夏衣を見やった。夏衣は思ったよりずっとまだ紅夜の近くに立っていて、にっこり笑ってこちらを見ていた。 「帰るよ、だって、俺の家はあそこだもん」 そう言ってくれるなら大丈夫なのだと、紅夜はまだ思えなかった。 「行って。振り返らずに、走って」 夏衣は笑って、紅夜はそれに黙って一度頷くことしかできなかった。

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