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「お願いごとが御座います」 空が白み始め、野鳥らの鳴き声がこだまする朝方。結局スウィフトの自宅へ寝泊りした御坂は、何時の間にか仕事に出掛け、何時の間にやら帰ってきていた家主へ改まった物言いをした。 「珍しいな、聞こう」 「感謝します」 白いシャツ一枚で立ち上がり、青年は予め文章を打っておいたモバイルを相手に差し出す。300字程度だろうか。スクロールも必要ない短文に目を通し終え、真意を理解した大人はゆったりと笑んだ。 「承った」 「…私は、常に銃を携帯しています、貴方と違って…ですから」 「勿論だ、君は自分の身は自分で護る。後は体調に気を遣えれば完璧だな」 今しがた読んだ文章を消去し、相手は紳士らしく丁寧な仕草でモバイルを返す。運よく熱を出すのは免れたが、確かにあの雨の中歩くのは愚行に過ぎたかもしれない。 スウィフトが気付いて拾っていなければ、速度を出しがちなあの先の国道で、帰路を急ぐドライバーに轢かれていたかもしれない。もし、そうなっていれば。 「死にたかったかね?」 宙を見つめる御坂の思考を掬い取り、大人は躊躇なく問うてきた。また違う会議に行くためにジャケットを着替える長身を見上げ、青年は特に考え込む間も無く否定した。 「いいえ」 「なら良い。死にたくなったら私に申請しなさい」 「…通るんですか?」 いや、と廊下に遠のいた背中から声が返る。今日に後ろ倒して圧縮されたスケジュールをこなすため、その背中は1秒後には数人の秘書との通話に戻ってしまう。 昨夜の情事の証拠は、御坂の身体に幾つか残っているだけだ。それもシャワーを浴びれば消える。切り替えの早さも2人の日常で、お陰で朝になるや御坂は感傷も忘れて研究室に帰ることが出来た。 あの研究室に、暫く親友の姿はない。 彼は出産を控えた妻の下へ飛ぶのだ。恐らくイラク行きのチケットが手配できたら、数日後にでも。 彼が進めている都市熱の研究は、未だ突破口を見つけてはいない。病に侵された彼の妻の出産は、相当なリスクを背負っているだろう。そして、胎内感染や産道感染の恐怖に加え、障害が残る恐怖までも。 「康祐――執刀医に話が付きそうだ、君のスケジュールを聞いておこう」 「いつでも構いません」 スウィフトが矢庭に仕事の話を投げようが、持ち前の反射神経で反応する。いつでも構わないが、早ければ早いほど良い。そんな御坂の気概へ頷くと、スウィフトは器用に片手でラップトップを操作しながら、電話口の秘書へ矢継ぎ早に指示を投げ始めた。 「最短で可能な日取りを教えてくれ、それから12時からの会談は遅らせて欲しい――…先んじてテレビ局と話がある。序にすまないが、幾つか資料のまとめを外注して貰えるか?」 ぼんやりとその会話を聞いていた御坂は、スウィフトが外注先として提案した下請けの名前にぴくりと瞼を震わせた。 案の定秘書も閉口したのち、『しかし…』と口籠るのが聞こえる。その外注先は米政府の息が掛かっており、情報を秘密裏に流しているとの”疑惑”があった。スウィフトも既知の筈である。 「民間企業は早くて安い。急ぎなので今日中には手配を頼む」 『Of course…サーが仰るのであれば』 微かに漏れる会話を耳に、御坂は目礼して身支度に戻る。スウィフトは先ほどの御坂の要請を実行したのだ。 御坂が文章として提示したのは2つ。自分が手術するとの情報を、”ただの不注意として”漏洩させて欲しいこと。そして自分が体内に入れたのは致死性のウイルスを使った生物兵器だと流布して欲しいこと。 知る人間には隠語と分からせ、知らない人間には恐れを抱かせる。スウィフトはその策を受け入れ、これからスパイである民間企業に送る書類の中に、うっかり手術に関する打ち合わせ資料を紛れ込ませるだろう。 「さて私は出立する、他にも欲しいものがあればメールしなさい」 何時の間にかMTGを終えていたスウィフトが、別れ際の定型文となった台詞を付け足した。 いつも御坂が何も言わないのを知ってのことだ。しかし、もし――ここで、相手が呆れ返るような稚拙な要求を口にしたら、このいつも通りの朝はどうなるのだろう。 展開を想像した。御坂の脳内で築いた地盤が崩れ落ち、スウィフトは残念そうに嗤笑(ししょう)をこちらへと向けていた。愚かしい空想に費やすような思考の無駄が、未だ自分にもあったようだ。御坂は昨夜からの下らなさに表情を消し、大学へ戻るべくラップトップで車の要請を始めた。 それから時が経ち、バートは宣言通りイラクへ立った。御坂はナノボット移植を完了させ、遂に安保理の下位組織であったUNSDHは独立を果たした。無論非公表であり、そのようなアンダーグラウンド機関は多数あったのだが。 UNSDHの異質さは警戒され、同時に”どこにも属さない”ことで様々な人間から興味を持たれた。ある者は乗っ取ろうと首を狙い、ある者は手懐けようと甘言を寄越し。スウィフトはそんな連中へメリット・デメリットを並べ立て、見事に言い包めてみせ、御坂は早々に軍との癒着を図って手を回した。 具体的には、彼らが頭を悩ませるような…込み入った紛争地帯の問題を聞き入れ、端から解決していった。まるで世界の諮問機関のように。 各国軍は安保理より聡く、現場を知り身軽なUNSDHに信頼を寄せたし、当然それに付随して所長である御坂康祐の名も広まった。 御坂は、研究室よりも機関に居る事の方が増えていた。 ナノボットは8割方役目を果たしていたが、未だ本来の完成ではない。にも関わらず、スウィフトは急かすでもなく、現在も機関の仕事を支援している。 『"From: Burt Diefenbaker 明後日のフライトで帰る"』 そんな折だった。それまで沈黙していたアドレスからメールが来たのは。 御坂は予想外の内容に眉を寄せ、不穏な心持ちで理由を問う。 『”妻が亡くなった。葬式は済ませた。 娘は現地で妻の相談に乗っていた女性が引き取りたいと言っている。 一度、アメリカに戻る。”』 彼らしからぬ、端的な説明。ディスプレイに表示された数行を目に、御坂はつい瞑目し、他者の痛みを感じた胸を押さえていた。 最悪の事態は避けられた。娘は無事生まれていたが、またしてもバートの手を離れ、他者の手に渡ろうとしている。 『分かった。気を付けて』 それが果たして自業自得なのか、どんな事情なのか。把握しない自分も余計な言葉が憚られ、無味な文章を送り返した。 帰ってきた彼に自分が出来るのは、可能な限りいつも通りに出迎えることだ。どんな話も静かに聞き、肯定でも否定でもない相槌を打ち。 ”お前を直視すると俺は駄目だ” あの日、誠実な親友が遂に自分に突き付けた拒絶。その拒絶に上からペンキを塗り、見えなくし、どうにか当たり障りない関係に戻れるだろうか。 例えば、また研究室で紅茶を淹れたとして。彼は以前の様に、毫も警戒なく飲んでくれるだろうか。例の溌剌とした笑みで、誰かに話したかった思い出を披露してくれるだろうか。 逆立ちしても手に入らないと思っていた、あの何の変哲もなく、欠伸が出るほど平凡な日々は。 最早思い出というガラスケースに閉じ込めておくだけで、二度と再現し得ない、御坂にとって美しいだけの過去となってしまった。 「…お帰りなさい」 せめて、それだけを言おう。あの部屋は親友のホームでもあり、自分に遠慮する必要はないのだと。そして親友の気持ちがどうあろうと、自分は何度でも彼の為に紅茶を淹れ、帰りを待つつもりであると。

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