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路面が濡れそぼり、漆塗りの様に光る。大層な雨の中、黒の車体がしめやかに光の道を進む。
カチカチ、進路変更のウィンカーが数回。その後俄かに乗客が「停めてくれ」と声を発し、運転手は従順かつ滑らかにマイバッハを落ち着ける。
停車した脇にはエリート大学の表札があった。既に表門は施錠され、夜の帳に人気は無いが、この歴史由縁の荘厳な空気は健在だった。
中へ用があったのに、どうしてこんな半端で車を停めたのか。運転手は訝しげに辺りを見回したが、のち数メートル先に人影を認めて口を噤んだ。
車軸の如し雨だ。そんな中傘も差さず、人影は只管雨に降られるまま歩いていた。
しかも何処の無頼かと思えば、あの闇夜でも分かる解語の花。美しい姿也は、後部座席に乗る主人の出資先ではないか。
拾わなければ。反射的にドアへ手を伸ばす。しかしロックに掛けた指は主人に止められ、結果視界の端で相手が自ら傘を手繰るのを見送った。
「私が行こう」
端的な台詞と共に主人はドアを開け、黒い傘を路面へ開く。ザア、と容赦なく襲う雨音と冷気。運転手はつい怯んだが、ハイブランドのスーツは躊躇もなく悪天候へと歩いて行く。
青年は…御坂は敏感に気配を察して振り向いた。じっと猫の様に動きを止め、ただ相手が現れた意味を敏い頭で考え。傘を差し出されても動かぬまま。2、3何か諭されても首を振ったが、結局数秒後には弱い肩を引かれ車へと行き先を変えられていた。
「サー、…シートが濡れます」
運転手がドアを開けるや、やっと口を開いてそれだけ言う。
「シートは替えが利くが、君はそうもいくまい」
そうだとも。運転手は甚く同意した。相変わらず御坂は雨に生気を吸い取られた様な顔をしていたが、結局反論する間も貰えず、空調の利いた車内へ押し込められる。
ドアが閉まり、再び雨の音が止んだ。主人は濡れた体へ自分の外套を掛けるや、本来の目的を蹴って自宅に戻るよう指示を変更した。
カチカチ、方向転換に再びウィンカーが車内を満たす。
運転手は何も言われぬまま暖房の温度を上げ、風邪を引きそうな姿の青年に気を揉んだ。
己の様な下働きにも愛想良く、優しい青年だった。故に同僚にも彼を嫌う者は居ない。主人曰く、彼は、御坂は鏡なのだそうだ。敵意には敵意を、愛情には愛情を返す。親切にすれば親切にした分見返りをくれるのが、御坂と言う青年なのだ。
一方、主人…メイソン・スウィフトとは、この国の副大統領補佐官たる重鎮であった。
狡猾で野心家。政界では未だ若年の部類で、家柄も申し分ない。
そんな名声藉甚するエリートは、今日も窮屈なスケジュールに追われていたが、道中でこの青年を見つけて予定を変えた。才能に価値を見出し、巨額の投資をした最愛の資産だ、放って風邪を引かせるのは忍びなかったのだろう。
「大学に御用事があったのでは」
「勿論だが、急用が出来た」
暗に自分の件を言っている。御坂は増々顔を顰めたが、反論する無鉄砲さなどなかった。
今は、スポンサーに余計な時間を使わせた罪悪感の方が大きい。
それにこの男、スウィフトは単なるスポンサーの一人ではない。御坂にUNSDHという国連機関の権力を授け、国境を越えた仕事への足掛かりをくれた最重要人物なのだ。
この男なくして今の御坂は居ない。
逆に言えば、この男さえ居なければ御坂はもっと慎ましく矮小に生きていられた。
「…君の思考は存外に分かり易い」
気を付けたまえ。言外にそう告げる男に、御坂は濡れた碧眼を上げた。もう一陣、風が吹けば消え入りそうな脆さで。
「何のお話でしょう」
「失敗したんだろう」
ほぼ同時に発した声が重なった。銀色の睫から瞬きと共に雨粒が転がり、白い頬を伝い落ちる。スウィフトは片眉を顰め、高そうなハンカチで濡れた頬を拭ってやった。
「元々断られる想定だったとも。君の友人はロマンチストに見えて、花より実を取る現実主義者だ。代わりの執刀医はこちらで手配しよう」
「…ご配慮感謝します」
「しかし君がそこまで手術を急ぐ理由は?増して自分の肉体を実験台にしようなどと、随分思い切った決断をしたものだ」
「…、でしょうか」
殆ど吐息に近い言葉を汲み取れず、見詰めて復唱を促す。オーダーメイドの外套に包まれた青年は、今度は比較的明瞭な発音で湧いた疑問を吐いた。
「私の目的とは、友人を失う程に価値のあるものなのでしょうか」
世界規模の目的と友など、本来天秤に掛けるに値しない。友とは必ずある方が良いものでも、必要なものでもない。
スウィフトは無論、此処に来るまでにほぼ失った。量れない情なぞより、目に見える金で築いた関係の方が余程信頼出来たからだ。
「失ったのかね?」
「はい」
「正解ではある。君の目的は一度機を逃せば二度と完遂できないが…友人はそうでもない。人の心など千変万化だからな」
誰よりも良く回る筈の頭は、いつもこう言ったスウィフトの言葉を熱心に聞いていた。今日も既に納得した顔をして、謝礼と共に小さく頷いている。
もう、この件は二度と口に出さないだろう。御坂はそういう崇高な精神の持ち主だ。
どれほど辛い目に合おうが数分後には立ち上がり、職務に戻る。スウィフトは青年の勤勉さも才能だと思っていた。
そう、強さでは無い。勤勉さだ。
「少し罅が入ったな」
窓の外へ呟かれた台詞を、御坂は理解できずにただ見ていた。
「いつか本格的に壊れてしまうかもしれない」
磨かれた硝子の上へ、止め処なく雨水が筋を描いてゆく。主語も分からず消えていった独り言は、何故か車内の温度を一層冷やした気がした。
「助言するなら、君は親しい人間を作るべきではない。あの拾った子供たちも含め」
「…世話は別に預けています。唯の親権者なので」
「そうかな?どうも大学の周りを鼠が嗅ぎ回っている」
あの研究室は何重にもセキュリティを掛け、本館から隔離された地区に設けた。中に入る人間は御坂とバート、スウィフトに限定し、ネット回線はすべて排除した。
それでも漏れる可能性はあるだろう。研究が人に移植可能になり、実用段階に入った事も含め。なんせスウィフトは国の代表として来ており、外部に報告する義務があった故。
「近日中に誰かが死ぬだろう。私か君、バート・ディーフェンベーカー、若しくは複数人」
淡々と告げようが、想定通り青年の表情は変わらなかった。
成果強奪など予期していただろう。その理知的な瞳を覗き、スウィフトはああ成る程、と先ほど吐いた疑問の答えを見つけてしまった。
青年がナノボット手術を急いだ理由。
恐らく秘匿目的だけでなく、自分が狙われる可能性を上げたのだ。
IDを奪い、研究室に侵入してレポートを手にするだけでなく…可能なら実物と被検体を手に入れた方が話が早い。そんな鼠の心理を利用し、ターゲットを己に絞るために。
「無論、全力で護る所存ではあるが…私 の協力を仰いで後悔したかね?」
「…サーの口添えなしでは、あのセキュリティは確保できていません。もっと早い段階で頓挫していた」
「そうかな。所で先ほどの価値の話に戻るが、答えはもっとシンプルだ。我々の間には契約があり、君はそれを履行しなくてはならない」
浮遊していた御坂の焦点が定まり、今度は正しくスポンサーの視線に応える。書面に起こされた形ある言葉を使えば、この青年はどんなに罅が入ろうが戻ってくる。責任感、その一点で。
「私は君にUNSDHを授けた。君は私に契約の成果を返さなければならない。違うか?」
「その通りです、サー」
光の戻った美しい青を見て、スウィフトは満足げに相手の髪を撫でる。運転手は主人の言葉のつれなさに肝を冷やしたが、優しさの欠片も無い、現実的な言葉を貰ってこそ御坂は立っていられたのだ。
スウィフトは何者よりも御坂を理解していた。
故に送迎車を降り、警備が開いた門を潜ってプライベートな邸内へ帰宅した時。
それまで体調を気遣いもしなかった青年を振り返り、濡れるのも厭わず抱き締めた。
御坂は驚き、僅かに硬直した。しかし次第に全身が温かさに包まれ、嗅ぎ慣れた上質なオードトワレに満たされるや。それが如何に仮初の安寧だろうが、凍った身体は溶かされ、何の抵抗も出来ずに佇んでしまう。
「康祐」
器用に、明確に”外”と区別した柔らかい声が名前を呼ぶ。
例え支配して利用する為と分かっていようが、愛情に飢えたこの青年はそれに一等弱かった。
「具合はどうだ」
「――…いえ」
「熱は?」
女性に酷く好まれそうな、大きな手が白い額へと触れる。その内面がどれだけ冷めていようと、機械の様に合理的だろうと、柔らかく撫ぜられる度、御坂はこの男に準備していた反抗心を端から奪われてしまった。
「…サー」
「どうした」
「貴方の予定は把握していませんが…こんな無駄な隙間はない筈です」
「そうだが、お前を置いて行く用事も無いよ」
人が欲しい言葉を次々と言い当てる。それでいて常にくれる訳ではなく、自分の利益の為にうまく使い分けられる。このスポンサーは、他人を掌握する術に長け過ぎている。
御坂だって賢い。この大人が甘い言葉を掛けるのも、濡れた肌を温めようと抱き上げてベッドへ向かうのも、愛情に基づいたものでないと理解している。
だから形だけでも抵抗する。子猫が引っ掻く程度の威力だろうと、逃れられなかろうと。この男の優しさに身を委ねてしまえば、二度と自分の力では立っていられなくなるから。
「冷たいな」
遂に爪を立てようとした手を握り、スウィフトは淑女へするように凍えた指先へ口付けた。御坂が攻撃を仕掛けた事など咎めもせず。
長い指を絡め、まるで愛しい相手と錯覚させる眼差しを向ける。この大人はきっと、自分を地獄へ誘う。
「…サー」
唯一の親友は去った。自分を直視できないと言って。これまでに研究を、任務を共にしてきた同志は何人も死に、気付けばいつも御坂は一人残されていた。
「貴方は、契約を」
契約を履行すると言うのならば、目的が達成されるまで消える事は許されない。権力者と傀儡の関係だろうが、2人のサインした計画が実現するその日まで。
この大人は居なくならない。唯一。周囲の誰が亡くなろうと、世界のその他一切が消し飛んでも。
本心から芽生えた情が続かないなら、自分はこの虚構の温もりに満足してもいいのではないか。例え利用価値が無くなった瞬間、白紙に戻る関係だって。今頭上にある目が自分を見ている間は、きっと孤独ではない筈だ。
「…居なくならないで」
吐息に近い弱音は、一瞬冷血漢に珍しい表情をさせた。暗がりで御坂には見えなかったが。
次の瞬間にはもう普段の様子に戻っていたが、何故だろう。いつも最適解しか取らない筈の手は、御坂の上擦った呼吸が落ち着くまで、甚く長い間その柔らかい髪を撫ぜていた。
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