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目を瞑れと言った。見て見ぬふりしろと。
つまり2人は他人で無くてはならなかったし、ラインを超えることは許されなかった。
バートは逃げた。正しくは研究に没頭した。御坂は御坂で増々もうひとつの仕事が忙しくなり、2人が出会った頃の様に他愛ない話をする機会も希少になった。
そして半月ほど経った頃だったか、バートには医療コミュニティで出会った美しい恋人が出来た。彼女は猛威を振るう感染症に立ち向かい、中東の地獄で懸命に戦っていたが、やがて自身も病に蝕まれ、使命を捨てての入院を余儀なくされた。
バートは、感染症のワクチン開発に没頭した。彼女自身のためにも、彼女が腹に身籠った新たな命のためにも。愛と言うより使命感にとりつかれ、本来のナノボット研究も疎かになろうが、共同経営者は優しかった。
優しくいつもの様に世話を焼いて、会えば自分のために紅茶を淹れてくれた。そんな変わらぬ姿へ勝手に安堵していたが、ある日すれ違いざま、彼のスプリングコートから煙草の苦さが香り、つい虚を突かれて声を上げる。
「…康祐、喫煙所に居たのか?」
「バレた?」
相手はしれっと聞き返し、次いで何処か悪戯を知られた様な顔で微笑む。まさか、自分で吸った訳ではないだろう。あれこれ可能性を思案する自分を見かね、相棒は早々と答えをくれる。
「君の息子が居たんだ」
手元からバインダーが滑り落ちた。喧しい音が響こうが、暫く反応出来ずに立ち尽くしてしまう。御坂は黙ってそれらを拾い上げ、丁寧にまとめて親友の手中へと返す。
「…何で」
「飛び級で入学したみたい。声は掛けられなかったけど、近くの学生に教えて貰ったよ」
「あ…の、噂になってたのは知ってたが…まさか、俺の息子だとは…事実なのか?」
「今度聞いてみるね」
まるで明日の天気みたいな軽さだ。全く平静な親友の姿を前に、漸く息を吐いたバートは書類を拾われた件に関して礼を述べた。
息子がこの大学へ入学していた。離婚した妻に親権を取られて以来、殆ど行方知れずになっていた我が子が。記憶の中の彼は未だ赤子で、恐らく父の記憶の一端も無いだろう。
「それとね、バート。一つお願いがあるんだけど」
喜怒哀楽が綯交ぜになる胸中、御坂は知ってか知らずか、思考を中断させる様に新たな話題を振る。”お願い”という珍しい台詞に顔を上げれば、親友はいつもと変わりない柔らかさで希求を述べた。
「君にナノボットの手術を任せたいんだ」
「…まさか人体にか?問題は無いだろうが、国の臨床試験許可は未だ…」
「大丈夫、公にしないし、もう許可は取った」
何時の間にそこまで事が進んでいたのか。与り知らぬ内容に思わず眉を顰めたが、ふと相手の表情や言葉の裏を読み取って押し黙る。
「同意書は後で用意するよ」
とどのつまり、被験体は彼自身らしい。手術に同意する旨一筆、自分が署名をすればそれで済むと。
確かに法を度外視すれば、研究者自らがリスクを負う事に問題はない。自己責任で済む。経過観察も情報を漏らさず済む。しかし何より、以前にそんな事よりも。
「お、前に…何かあれば…途方もない損失で…」
「私たちを蔑みたいの?私は君に全幅の信頼を寄せているし、君はそれに値する」
青い目に詰められ、バートは今度こそ肝を冷やした。近頃感じていた、この親友の知らない顔。世界を相手取る諮問機関の長として働き、統率者としての才覚に目覚めた顔。
あの日裏庭で出会った人の良さはそのままに、御坂はバートの敵う相手でなくなった。幾人もの権力者とコネクトを持ち、指先ひとつで国の明日を変える程に。
「…怖い目をする様になったな、康祐。もう一つの職場の影響か」
「その話は今関係ないじゃない。確かに私は君に命令出来る立場だけど、今はあくまで”お願い”なんだ」
言葉でそう言おうが、こちらに断る術はあるのだろうか。目前で答えを迫る親友の背後には先日の”融資者”がちらつき、バートは思わず首を振って重い息を吐く。
「睨むな…分かったよ、確かに俺とお前が創ったものだ、ちっとも懸念はない。しかし言い草が解せないな、らしくなく焦っているじゃないか」
敢えて深入りしてやれば、青年は乾いた透徹さに沈んだ。淡々と寒く、夜の氷点下に落ちた砂漠のように。察するに嫌な部分を突かれ、感情を消して対処したのだろう。バートはつられて緊張し、藪蛇を突いた気分で黙る。
「焦る?…勿論、君は最来週にはイラクへ立つからね」
冷えたが声が告げたのは周知の事実だった。バートは迫る妻の出産予定日に向け、間もなく休職届を出して中東へ向かう。
暫く帰る事も出来ないだろう。故に手術を請け負ったとして、その後の経過観察すら出来ず無責任に去ることになる。
「…そうだな、だから今その話は受けられない」
「執刀だけでもいいよ、アフターケアの引き継ぎ先は確保してあるから」
「そんな事は出来ない、絶対にだ」
バートは差し迫った目を親友へ向けた。しかし相手に応じる様子はなく、どうやら延期に出来ない急務らしいと知った。
例えば自分が手術を断れば、この目前の途方もなく尊い、唯一無二へ他人がメスを走らせる事になる。生殺与奪の権を握って身体を開き、生涯体内へ残る装置を埋め、その後も。
知っている者であろうと、知らない者であろうと、想像だけで吐き気がした。
それは凡そ、唯の親友に向けるべきでない感情だった。愛と尊ぶには余りに黒い。怪物を持て余した男の対岸では、その親友が慄いて眉を寄せていた。
「…何でそんな目で、私を見るの」
初めて見る表情だが、何も嬉しくは無い。理解できないものを警戒する本能だ。
「私が、君に何かしたの」
怒りではない、諫めでもない。けれど、そこはかとなく失望に似た気配を感じた。御坂はバートに何もしてなどいない。何もしない故に、バートは何を返す事も出来ない。
「…違う、自分の愚かさを悔いてるんだ。俺じゃお前を救えなかった」
「手術は私が決めたんだよ、スポンサーの判断じゃない。以前にも言ったけれど、逃げたいなら私は自分で逃げられる。望んで此処に居るし、君に…助けを乞うたつもりも無いんだけど」
「言う通りさ。お前は強い」
自分は見誤っていた。否、御坂が助けを必要とする存在だと思い込みたかった。そして自分に助けを求め、頼ってくれればいいと身勝手に求めていた。
「でも、お前を直視すると俺は駄目だ」
御坂は其処で反論を止めた。二人の間に横たわっていた価値観の差へ、相手が音を上げたと思ったからだ。
「そう…早かったね」
その淡々とした感想は、バートの心臓を抉った。執刀できない旨を了承し、御坂はただ仕事相手としてこの部屋を去った。
きっと何も無い、明日からは。明日からこの部屋には、単調で乾いたキーのタイプ音だけが響いている事だ。御坂はバートの幸せを願うだろう。子供を授かり、家庭を築き、光に溢れた真っ当な幸せを願うだろう。
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