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第二章 邂逅 5 街角②
それからしばらく、馨から遼真の元へ電話は一本も入らなかった。自分から電話をすることもできない遼真は、再び馨の住んでいるであろう街へと降り立った。
以前来た時と同様、町全体が何となく色褪せていて、どこもかしこも荒廃している。アーケード商店街は避け、まずは公園に行ってみた。たまに炊き出しが行われているという公園である。キリスト教関係の施設が近所にあった。
「おう兄ちゃん。久しぶりだな。あれからどうだい」
ホームレス風の高齢男性が焚火で暖を取っていた。
「聞いた話だと、兄ちゃんが探してた奴な、川向こうに住んでるらしいぞ」
「はぁ、そうですか」
遼真が淡々と答えると、男は首を傾げる。親指と人差し指で輪っかを作り、これは? と問う。
「彼の家なんて、僕はとっくに知ってますよ」
「何だよォ、兄ちゃんが来たら俺が真っ先に教えてやって酒独り占めしてやろうと思ってたのによォ」
「なんだかすみません。これからはもう、彼に構わないで大丈夫ですから」
「構うも何も、元々親しいわけじゃねぇからよォ……」
遼真は煙草を一本だけ置いて公園を去った。
川向こうへ行く前にパチンコ店に寄った。台を物色するような顔付きで店内を一周してみたが、馨の姿はなかったので何もせずに退店した。それからのんびり歩いて、堤防を越えて川沿いの遊歩道へ出た。点々とベンチが設置され、下流にスカイツリーが見える。
遼真は川を遡上する形で歩いた。休日にも関わらず、散歩やジョギングをする人はおらず閑散としている。しばらく行って橋のたもとに着こうという時、欄干に寄り掛かって川を眺めながら紫煙をくゆらせる長髪の男と出会った。
「馨ちゃん」
「あ? 何じゃあ、遼真か」
馨はぱっと振り返る。短くなった煙草を一本、薄い唇に咥えている。
「何の用じゃ、こがなとこまで」
「探しに来たんだよ。ずっと音沙汰ないから心配で」
「別に、心配されるようなこたぁないちや」
「わかってるけど、この間は怒らせてしまったし、謝ろうと思ってね。出過ぎたことを言ってごめんね。馨ちゃんのお金なんだから、好きに使えばいいよ」
馨は渋い顔で遼真を見つめた後、深く溜め息を吐いた。
「……ったくおまんは、いっつもいっつもそうやってわしの先を行く。やき気に食わん」
煙草をとんとん叩いて道端に灰を落とす。
「余った金で、パチンコ打ってきたがよ。結構調子えかったけんど、なんや全然おもんのうて」
「そうかい」
「おまんと競馬行った時は、勝てんでも楽しかったのに。妙な話じゃ」
遼真は静かに頷く。
「わしかてにゃあ、あの時はちくと言い過ぎたかもしれんと思いよったがじゃ。おまんが口うるさく言う時はわしのためを思うて言いゆうだけやち知っちゅうき。けんど今更謝るがも格好つかんし、ほいたらおまんが来て先に謝りよる。わしだけ、いっつも格好がつかん」
馨はコートのポケット――遼真に借りっぱなしになっているコートのポケットに手を突っ込んだ。取り出したのは、なんとスマートフォンである。シルバーのボディが眩しい。
「それは」
「買うた」
馨は得意げに、スマホの背面に描かれたロゴマークを遼真に見せる。
「中古屋行ったら二万もせんで買えた。別におまんに言われたき買うたわけやないけんどにゃ。一応報告しちゃる」
「買ったんならすぐに電話してくれたらよかったじゃないか」
「そがなことしたらおまんが調子に乗るろう。別に、おまんに言われたき買うたわけやないきに」
「調子になんて乗らんよ。でも、これで僕からも電話ができるね。嬉しいな」
「ん、まぁ……」
馨はわずかに俯いて笑う。
「ほいたら、行くぜよ」
「どこへ?」
「どこっておまん、」
馨は吸殻を捨てて踏み付けた。
「わしの家。捜しよったがやろ」
馨は身を翻して歩き出した。遼真も後を追おうとし、一旦しゃがんで吸殻を拾い上げた。
「何しゆう」
「いや、さすがにね。ゴミ箱あったら捨てとくから」
馨はむっと顔をしかめ、遼真の手から吸殻を奪い去った。
「えい。こがなもん、自分で始末できるわ」
「そう、よかった。ポイ捨ては犯罪だから――」
「わかっちゅう! ちゃんと捨てちゃるき、心配しなや」
馨はふんと鼻を鳴らし、大股でどしどし歩いた。途中の公園でゴミ箱があったので吸殻を捨てた。それから狭い路地をごちゃごちゃ歩いて辿り着いたのは、半世紀以上も前に建てられたような木造二階建てのアパートであった。優麗荘、と書かれた黒ずんだ看板が掲げてある。
「ここ?」
「ははぁ、おまん今、どういて川向こうやないがやろうと思うたろう」
「うん、まぁ……どうしてそのことを知ってるんだい」
「おまんの考えちゅうことなぞ全部お見通しぜよ」
本当のことを言うと、ホームレスの男達がしきりに馨の情報を知りたがるので、これは大方遼真が関わっているせいだろうと睨んで、適当なことを言ってかわしていたのだ、と馨は言った。
「悪い人らぁやないけんどそこまで親しゅうもないき、嘘言うてもかまんろう。そもそも川向こうらぁて遠うてわざわざ渡って来るわけないのに、おまんも大概人がえい」
「はは、いや、馨ちゃんも人が悪いなぁ」
「おまん、えいカッコしゆうせいで目ぇ付けられちゅうがやないか? 気前がえいのもほどほどにしぃや」
ガララ、と引き戸を開けると、雑然とした狭い共用玄関がある。昼だというのに電気をつけても薄暗い。色褪せた壁には木製の郵便受けが備え付けてある。踏み板をしならせ、急傾斜の古い階段を上った。突き当たりは共用の便所で、一番手前が馨の部屋である。薄い扉を開けるとそこは四畳半の和室であった。
「なかなか悪うないろう。わしの城じゃ」
窓の下はどぶ川が流れている。ベランダはないが、一応柵が付いて落ちないようになっている。
「聞きゆうが? 何じゃあ、さっきっから黙りくさって。こがな汚い場所は気に入らんかよ」
「ううん。何て言うかな……感動してるんだよ。ていうかほっとしてる。馨ちゃん、ひょっとしたら家がないんじゃないかと思ってたから」
「わやにしな。わしを何やと思っちゅう」
「だって、ホームレスのおんちゃんらと知り合いみたいだったから。にゃあ、寝転んでもえい?」
馨の返事を聞く前に、遼真はごろりと横になった。
「はぁ、やっぱり畳はえいねぇ」
「掃除しやせんき、服が汚れるちや」
「構わん構わん。この部屋全体、馨ちゃんの匂いがしゆうねぇ」
遼真は目を瞑ってうっとりと深呼吸した。馨は眉をひそめ、その鼻をむんずと摘まむ。
「いてて」
「変なことを言いなや。それに何じゃ、わしのにおいらぁて。臭いがかよ」
「そんなこと言いやせんよ。馨ちゃんの匂い、僕は好きぜよ。甘うて、懐かしゅうて――」
馨は遼真の鼻を摘まむだけでなく軽く捻る。遼真は涙目で、赤くなった鼻を摩った。
「もう、酷いなぁ」
「次変なこと言うたら捥(も)ぐきに」
「怖いこと言わないでおくれよ。僕はいつだって大真面目なのに」
遼真は馨の結び髪を一房手に取って撫でた。元々癖のある髪が傷んで針金のごとく硬くなり、さらに鳥の巣のように縺れ合い、梳こうとしても指が通らない。
「……やめぇ。こそばい」
「昔は触らせてくれたろう。痛くしないから、もう少しだけ、ね? 頭、こっちに向けとうせ」
馨は渋々と遼真の隣に横になった。遼真は馨のねじくれた髪を毛先から一本一本解いた。無為な時間が静かに流れた。
「……りょーまぁ、もうえいろう」
「でも、まだ半分しか解けてないよ」
「集中しすぎじゃ。もう暗いき、やめぇ」
馨は起き上がり、遼真の手を離れた。ぎりぎり西日が入るおかげで室内は真っ暗ではない。残照が赤く滲んでいる。
「がんばって解いたかて、どうせすぐに絡んでまうき」
「そんなこと」
「ある。風呂に入るとすぐ絡む」
黄色い湯桶を抱え、馨は言った。
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