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第二章 邂逅 6 銭湯
馨が近所の銭湯へ行くというので、遼真もついていった。無理についていったわけではないが、来るなとも言われなかった。遼真の借りているアパートには風呂が付いているので、銭湯などはほとんど行ったことがない。
瓦屋根に宮造りという古風な門構えで、いかにも昭和という風情の銭湯である。コインランドリーが隣接しており、馨はいつもここで洗濯をするのだと遼真に言った。木札の下駄箱に靴を入れ、無愛想な番台に入浴料を払う。馨は当然回数券を持っている。
「馨ちゃんは、毎日銭湯に通っているのかい」
「夏は大体毎日じゃけど、冬は三日に一回らぁて時もある」
「そう。じゃあ、昨日は来てないの」
「昨日は来たちや。けんど、一昨日は来ちゃあせん」
馨は乱雑に服を脱ぎ、ロッカーに押し込んで扉を閉めた。先に浴場へ入り、一番端っこの定位置に座って体を洗う。そのうち遼真も浴場へやってきて、洗い場をきょろきょろ見回した後に馨を見つけて隣に座る。しかしすぐに立ち上がって脱衣所へ戻ろうとする。
「りょーま、どういたが?」
「いや、シャンプー置いてないなと思ってね。あっちで色々売ってたから、買ってこようと」
「はー? おまんの目は節穴か? わしの石鹸があるろう。貸しちゃるき、はよ戻りや」
馨は両手に持った石鹸を見せて言った。遼真は一瞬時間が止まったように固まり、馨の目をじっと見て、いいの? と言った。
「えいも何も、わしゃ最初からそのつもりやったぜよ。おまん、タオルも何も持ちやせんき」
「タオルならレンタルしたよ」
「け、けんど、シャンプーは買う必要ないろ? わしの牛乳石鹸使いや。ほれ、遠慮せんで使い」
「じゃあ、遠慮なく」
遼真も石鹸を泡立てて体を洗う。馨はなんだか機嫌がよく、頭を泡だらけにしながら鼻歌を歌っている。小学生の頃に流行ったアニメのエンディングテーマだ。
「馨ちゃん、何か楽しいことでもあったの」
「いんやぁ、おまんでも忘れ物することがあるがや思うてのう」
「忘れ物っていうか、今日のはしょうがないろう」
「昔はわしばっかり忘れ物して、おかんに叱られよったきにゃあ。絵具セットとか、習字セットとか、ピアニカ借りたこともあったのう。ありゃあさすがに、今はもうできんけんど」
「馨ちゃん、何でもかんでも持ち帰ろうとするきいかんがよ。全部学校に置いとけば忘れ物なんてせんのに」
「じゃけど、家でピアニカ吹きたい日もあるろう」
「馨ちゃんが家でピアニカ吹きゆうとこなんて見たことないぜよ」
「あー、昔の話なんぞもうえいわ。ともかく、わしがおまんに物を貸すがは初めてやき、気分がえいが」
馨は桶に溜めた湯を豪快に頭から被って泡を流す。
「貸しついでに、背中でも流しちゃろう」
「え、いや、えいよ、気にせんで」
「まぁま、せっかく一緒に来たがやき、遠慮しなや」
遼真は亀のように首を竦めて背中を丸めたが、馨は構わずタオルで背中をごしごし洗った。
「お痒いところはございませぬか、ご主人様ぁ?」
「ちょ、そういうのいいから……」
「何を恥ずかしがりゆう。昔はこういてよう一緒に入ったやいか。洗いっこかてようしたし」
「それは子供の頃の話だろう。今はもう大人だから……」
「ん、まぁ確かに、昔よりも大きい背中になっちゅうにゃ。絵でも何でも描けそうじゃ」
馨は泡だらけの遼真の背中を指先でついとなぞった。遼真はくすぐったがって身を震わせる。
「ちょっ、ほんになんなが。びっくりするきやめてよ」
「今からおまんの背中に字ぃ書くき、何書いたか当てとうせ」
「くすぐったくしないでおくれよ」
「わかっちゅうわかっちゅう」
馨はすいすいと指を動かす。
「でけた。わかっちゅう? もっかい書くかえ」
「ううん。僕の名前だろう。りょうま、ってひらがなで」
「何じゃあつまらん。簡単すぎたかのう」
「もう一勝負するかい。次はもっと難しいのにしてもえいよ」
「はん、急に乗り気になりよって」
馨は遼真の背中に泡を塗り、再びすいすいと文字を書いた。しかし一文字書いたところで手が止まる。
「くのいち……女?」
「……正解じゃ」
「女? だけ? 続きは? あ、もしかして」
「何でもえい。こがなゲーム、もう仕舞いじゃ」
馨は桶に溜めたお湯を引っくり返して遼真の背中を流した。クリップで手早く髪を纏め上げたかと思うと、さっさと湯船に浸かってしまう。
「飽きた?」
「ふん……こがなんで喜ぶほど、わしも子供やのうなっただけやき」
「結構楽しそうにしてたじゃない」
遼真も湯船に入った。熱湯みたいに熱い風呂だった。
「別に、楽しんでなぞおらん。わしゃおまんが……」
「嫌い?」
馨はむすっと眉をひそめたが、首を縦にも横にも振らない。
「それでも、僕は馨ちゃんが好きぜよ」
「やかまし。もう何遍も聞いたちや」
「何遍言ったっていいやない。ほんに好いちゅうよ、馨ちゃん」
馨はわざと水飛沫を上げて立ち上がった。遼真の顔に少し掛かった。
「もう出るが?」
「出る。暑い。ちくとのぼせた」
顔から胴から指の先まで真っ赤に火照らせて馨は言う。遼真も後を追って風呂を上がった。
脱衣所には十円で二分使えるドライヤーがあり、馨はそれを一回使って髪を乾かした。しかし案の定乾き切らず全体が湿ったままで、しかもぼさぼさのまま梳かそうともしないので、遼真が丁寧に櫛を入れてやった。普段から持ち歩いているものである。男のくせにと馨は言ったが、こういう時に役に立つ。
「それにしても、全然櫛が通らないね。剛毛で癖っ毛で量も多いから、すごく絡まってる」
「無理せんでえい。どうせ整わん」
「でももう少しやらせて。時間もあるし」
櫛が引っ掛かる度、縺れた箇所を手櫛で優しく解していく。
「馨ちゃんの髪、昔はこんなやなかったと思うけんど」
「おかんの高いリンス勝手に借りて使っちょったき」
「ああ、やき昔と匂いが違うがか」
遼真は馨の髪に鼻を寄せて匂いを嗅いだ。その様を鏡越しに見て、馨はどういう反応をすればいいのかわからなかった。遼真がもう一度口を開く前に立ち上がり、ささっと荷物をまとめる。
「……ごめん。嫌やったね」
「……別にえい。帰る」
「あ、待って待って」
遼真も急いで荷物をまとめた。
馨は煙草を咥え、生乾きの髪を結いもせずに流して歩く。後ろ姿だけ見ればさながら女である。
「風、冷たいね」
「冬やきに」
「馨ちゃん、そんな薄着で寒うないかい? 湯冷めしてない?」
馨はゆっくり口を開く。吐く息が白くなる。
「寒うない」
「よかった。帰ったらちゃんとあったかくするんだよ。髪濡れたままだと風邪引くかもしれんからよう拭いて」
「わかっちゅうき、はよ行きや」
いつしか駅に着いていた。駅と馨のアパートとは方面が違うのに、わざわざここまで一緒に歩いてきた。
「……ねぇ馨ちゃん、クリスマスって暇かな」
「何じゃ、藪から棒に」
「いや、せっかくだからどこか出かけたいなと思って。イルミネーションとか、綺麗なところいっぱいあるだろう? 東京ってほんと豪華だよね」
「……まぁ、用事らぁてありゃあせんけんど」
「よかった。じゃあ、もう電車来るから、後で電話するよ。ほいじゃあね!」
浮かれ調子でそう言って、遼真は改札口を抜けた。
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