13 / 41

第二章 邂逅 6 銭湯

 馨が近所の銭湯へ行くというので、遼真もついていった。無理についていったわけではないが、来るなとも言われなかった。遼真の借りているアパートには風呂が付いているので、銭湯などはほとんど行ったことがない。  瓦屋根に宮造りという古風な門構えで、いかにも昭和という風情の銭湯である。コインランドリーが隣接しており、馨はいつもここで洗濯をするのだと遼真に言った。木札の下駄箱に靴を入れ、無愛想な番台に入浴料を払う。馨は当然回数券を持っている。 「馨ちゃんは、毎日銭湯に通っているのかい」 「夏は大体毎日じゃけど、冬は三日に一回らぁて時もある」 「そう。じゃあ、昨日は来てないの」 「昨日は来たちや。けんど、一昨日は来ちゃあせん」  馨は乱雑に服を脱ぎ、ロッカーに押し込んで扉を閉めた。先に浴場へ入り、一番端っこの定位置に座って体を洗う。そのうち遼真も浴場へやってきて、洗い場をきょろきょろ見回した後に馨を見つけて隣に座る。しかしすぐに立ち上がって脱衣所へ戻ろうとする。 「りょーま、どういたが?」 「いや、シャンプー置いてないなと思ってね。あっちで色々売ってたから、買ってこようと」 「はー? おまんの目は節穴か? わしの石鹸があるろう。貸しちゃるき、はよ戻りや」  馨は両手に持った石鹸を見せて言った。遼真は一瞬時間が止まったように固まり、馨の目をじっと見て、いいの? と言った。 「えいも何も、わしゃ最初からそのつもりやったぜよ。おまん、タオルも何も持ちやせんき」 「タオルならレンタルしたよ」 「け、けんど、シャンプーは買う必要ないろ? わしの牛乳石鹸使いや。ほれ、遠慮せんで使い」 「じゃあ、遠慮なく」  遼真も石鹸を泡立てて体を洗う。馨はなんだか機嫌がよく、頭を泡だらけにしながら鼻歌を歌っている。小学生の頃に流行ったアニメのエンディングテーマだ。 「馨ちゃん、何か楽しいことでもあったの」 「いんやぁ、おまんでも忘れ物することがあるがや思うてのう」 「忘れ物っていうか、今日のはしょうがないろう」 「昔はわしばっかり忘れ物して、おかんに叱られよったきにゃあ。絵具セットとか、習字セットとか、ピアニカ借りたこともあったのう。ありゃあさすがに、今はもうできんけんど」 「馨ちゃん、何でもかんでも持ち帰ろうとするきいかんがよ。全部学校に置いとけば忘れ物なんてせんのに」 「じゃけど、家でピアニカ吹きたい日もあるろう」 「馨ちゃんが家でピアニカ吹きゆうとこなんて見たことないぜよ」 「あー、昔の話なんぞもうえいわ。ともかく、わしがおまんに物を貸すがは初めてやき、気分がえいが」  馨は桶に溜めた湯を豪快に頭から被って泡を流す。 「貸しついでに、背中でも流しちゃろう」 「え、いや、えいよ、気にせんで」 「まぁま、せっかく一緒に来たがやき、遠慮しなや」  遼真は亀のように首を竦めて背中を丸めたが、馨は構わずタオルで背中をごしごし洗った。 「お痒いところはございませぬか、ご主人様ぁ?」 「ちょ、そういうのいいから……」 「何を恥ずかしがりゆう。昔はこういてよう一緒に入ったやいか。洗いっこかてようしたし」 「それは子供の頃の話だろう。今はもう大人だから……」 「ん、まぁ確かに、昔よりも大きい背中になっちゅうにゃ。絵でも何でも描けそうじゃ」  馨は泡だらけの遼真の背中を指先でついとなぞった。遼真はくすぐったがって身を震わせる。 「ちょっ、ほんになんなが。びっくりするきやめてよ」 「今からおまんの背中に字ぃ書くき、何書いたか当てとうせ」 「くすぐったくしないでおくれよ」 「わかっちゅうわかっちゅう」  馨はすいすいと指を動かす。 「でけた。わかっちゅう? もっかい書くかえ」 「ううん。僕の名前だろう。りょうま、ってひらがなで」 「何じゃあつまらん。簡単すぎたかのう」 「もう一勝負するかい。次はもっと難しいのにしてもえいよ」 「はん、急に乗り気になりよって」  馨は遼真の背中に泡を塗り、再びすいすいと文字を書いた。しかし一文字書いたところで手が止まる。 「くのいち……女?」 「……正解じゃ」 「女? だけ? 続きは? あ、もしかして」 「何でもえい。こがなゲーム、もう仕舞いじゃ」  馨は桶に溜めたお湯を引っくり返して遼真の背中を流した。クリップで手早く髪を纏め上げたかと思うと、さっさと湯船に浸かってしまう。 「飽きた?」 「ふん……こがなんで喜ぶほど、わしも子供やのうなっただけやき」 「結構楽しそうにしてたじゃない」  遼真も湯船に入った。熱湯みたいに熱い風呂だった。 「別に、楽しんでなぞおらん。わしゃおまんが……」 「嫌い?」  馨はむすっと眉をひそめたが、首を縦にも横にも振らない。 「それでも、僕は馨ちゃんが好きぜよ」 「やかまし。もう何遍も聞いたちや」 「何遍言ったっていいやない。ほんに好いちゅうよ、馨ちゃん」  馨はわざと水飛沫を上げて立ち上がった。遼真の顔に少し掛かった。 「もう出るが?」 「出る。暑い。ちくとのぼせた」  顔から胴から指の先まで真っ赤に火照らせて馨は言う。遼真も後を追って風呂を上がった。  脱衣所には十円で二分使えるドライヤーがあり、馨はそれを一回使って髪を乾かした。しかし案の定乾き切らず全体が湿ったままで、しかもぼさぼさのまま梳かそうともしないので、遼真が丁寧に櫛を入れてやった。普段から持ち歩いているものである。男のくせにと馨は言ったが、こういう時に役に立つ。 「それにしても、全然櫛が通らないね。剛毛で癖っ毛で量も多いから、すごく絡まってる」 「無理せんでえい。どうせ整わん」 「でももう少しやらせて。時間もあるし」  櫛が引っ掛かる度、縺れた箇所を手櫛で優しく解していく。 「馨ちゃんの髪、昔はこんなやなかったと思うけんど」 「おかんの高いリンス勝手に借りて使っちょったき」 「ああ、やき昔と匂いが違うがか」  遼真は馨の髪に鼻を寄せて匂いを嗅いだ。その様を鏡越しに見て、馨はどういう反応をすればいいのかわからなかった。遼真がもう一度口を開く前に立ち上がり、ささっと荷物をまとめる。 「……ごめん。嫌やったね」 「……別にえい。帰る」 「あ、待って待って」  遼真も急いで荷物をまとめた。  馨は煙草を咥え、生乾きの髪を結いもせずに流して歩く。後ろ姿だけ見ればさながら女である。 「風、冷たいね」 「冬やきに」 「馨ちゃん、そんな薄着で寒うないかい? 湯冷めしてない?」  馨はゆっくり口を開く。吐く息が白くなる。 「寒うない」 「よかった。帰ったらちゃんとあったかくするんだよ。髪濡れたままだと風邪引くかもしれんからよう拭いて」 「わかっちゅうき、はよ行きや」  いつしか駅に着いていた。駅と馨のアパートとは方面が違うのに、わざわざここまで一緒に歩いてきた。 「……ねぇ馨ちゃん、クリスマスって暇かな」 「何じゃ、藪から棒に」 「いや、せっかくだからどこか出かけたいなと思って。イルミネーションとか、綺麗なところいっぱいあるだろう? 東京ってほんと豪華だよね」 「……まぁ、用事らぁてありゃあせんけんど」 「よかった。じゃあ、もう電車来るから、後で電話するよ。ほいじゃあね!」  浮かれ調子でそう言って、遼真は改札口を抜けた。

ともだちにシェアしよう!