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第三章 最後の一線 1 夜桜

 年が明けた。遼真から年賀状が届いていたので、馨は返事を書いた。葉書を買ったついでと言ってはなんだが、田舎の両親宛てにも数年ぶりに年賀状を出した。こちらの住所は記載せず、ただ元気でやっているから心配しないでほしいと書いた。  昼過ぎ、遼真に誘われて浅草寺へ初詣に行った。実家にいた頃は毎年の恒例行事だったのに、馨は上京してこの方一度も初詣に行っていない。人混みは疲れるし、元々信心深い方でもなかった。しかし遼真がどうしてもと誘うから仕方なく付き合った。  駅から既に大混雑していた。雷門も仲見世通りも境内も人で埋め尽くされ、足を踏んだり踏まれたり蹴られたりした。人波に揉まれるうち、お賽銭用にと握りしめていた五円玉をどこかへ落とした。参拝後におみくじを引いたら、遼真は大吉だったのに馨だけ凶だった。おみくじは縛ってきた。  しかしそう悪いことばかりでもない。凶を引いた馨を哀れんで、遼真は厄除けのお守りを買ってくれた。仲見世では温かい甘酒やお汁粉が無料で振る舞われていた。最後に人形焼きを買い、食べながら帰った。仄かな甘みが優しかった。  遼真は毎週のように馨を遊びに誘った。東京で重賞レースが開催される時は、馨の希望を尊重して競馬に付き合ってくれた。馨も遼真も勝ったり負けたりしたが、以前のような喧嘩はもうしなかった。競馬の後は大概手頃な居酒屋で飲んだ。  それ以外だと何をするかというと日によって様々で、ただ食事をするだけだったり飲みに行くだけだったり、商店街や百貨店で買い物をしたり、映画館で映画を見たり、バッティングセンターや釣り堀に行ったり、東京タワーの展望台に上ったりもした。  今夜は上野公園へ夜桜を見に行く約束をしていた。しかし約束の時間になっても遼真がやってこない。時間が遅くなればなるほど花見客は増し、沿道は宴会用のレジャーシートで埋め尽くされ、至る所から乾杯の音頭が聞こえてくる。馨はしばらく待ったが一向に遼真がやってこないので、仕方なく一人でぶらぶらと歩き出した。  馨は花見よりもまず屋台へ直行した。イカ焼きをむしゃむしゃ食べながら、カップになみなみと注がれた生ビールを飲む。これが旨い。晩酌のストロングチューハイも悪くないが、お祭り騒ぎをBGMに飲む花見酒は格別に良いもののような気がした。    *    今夜は上野公園へ夜桜を見に行く約束をしていた。しかし急な残業が入って遼真は大幅に遅刻した。遅刻どころの話ではない。ようやく仕事が終わって会場に駆け付けたのは、閉園時刻間際であった。帰宅する人々の流れに逆らって、遼真は駅から公園へと向かう。当然ながら待ち合わせ場所に馨の姿はなく、遼真は園内を闇雲に探し回ることになった。  本日の桜祭りは終了しましたとアナウンスが流れる。花見客が続々とシートを畳んで帰っていく。ぼんぼりの点灯時間は終わったが、それでも街灯に照らされてぼうっと白く浮かび上がる桜は綺麗で、遼真は余計に気が逸った。中央の桜並木を抜け、不忍池をぐるりと回る。その外れにぽつんと立つベンチに、求める人影はあった。  馨は背もたれに深く寄り掛かって座り、眠っていた。手元には酒の空き瓶や空き缶が転がり、足元には透明の使い捨て容器や割り箸といったゴミが散乱している。遼真が呼びかけると馨は薄く目を開いた。遼真はひとまず胸を撫で下ろす。 「んぁ……りょーま?」 「うん。今日はごめんね、こんな時間になっちゃって」  馨はあくびをしてまぶたを擦る。 「ふぁ……ほんに、わしがどれっぱぁ待ったち」 「一応電話もメールもしたんだよ。なのに全然出てくれないし、既読もつかなきゃ返信もこないし、ちょっと心配したよ」 「そがなもん、気づかん。周りがやかましゅうて……」  遼真は散乱するゴミをまとめて片付けた。馨は再び大きなあくびをする。 「眠い」 「今日はもう帰ろう。家まで送るよ」 「家ぇ?」 「うん。電車が無理ならタクシー呼ぶから」  遼真は馨を立ち上がらせようと手を差し出したが、馨はそれを無視してベンチに横になってしまう。そうして、まるで子供のように駄々をこねる。 「やぁじゃあ、まだ帰りとうない」 「そんなわがまま言わないで」 「いやじゃ、もっとりょーまと一緒におりたい」  遼真は思わず、掌で口元を覆い隠した。 「か、馨ちゃん、そがぁな台詞は……」 「帰るなら、りょーまの家がえい」 「馨ちゃん、」 「りょーまぁ、抱いとうせ」  馨が瞳を潤ませて言う。遼真はその場へ倒れるように膝を突いた。そっと馨の頬を撫でる。温かくて柔らかい。馨は気持ちよさそうに、遼真の手に頬をすり寄せる。遼真はごくりと喉を鳴らす。鉄壁の理性にひびが入っていく。 「にゃあ、りょーまぁ」 「馨ちゃん……期待してもえいが?」 「うん? んん……」  馨は遼真の首に腕を回して抱き寄せ、耳元で囁いた。 「りょーまぁ」 「馨ちゃん、僕は――」 「だっこぉ」  舌足らずなその一言で、遼真は急速に冷静になった。失われかけていた正気が戻ってくる。ますますきつく抱きしめようとする馨の腕を優しく解き、遼真は立ち上がった。自分で自分の頬を叩く。 「りょーまぁ、だっこしとうせ」 「いい歳してみっともないぜよ、馨ちゃん。それに、さすがに重うて抱っこはできん」 「じゃあ」 「おんぶもできん。けど肩なら貸せるき。ほら立って。帰ろう、馨ちゃん」  遼真は馨の腕を掴んで今度こそ立ち上がらせる。睡魔のせいか酔いのせいか、馨はふわふわと覚束ない。 「りょーまん家? りょーまん家に帰るが?」 「どっちでもいいよ。馨ちゃんがいいなら、うちに来るかい」 「いくぅ、いきたい」 「うん、じゃあそうしようか。もう夜も遅いきね」  駅前でなんとかタクシーを拾い、乗り込むと馨は再び眠ってしまった。肩に幸福な重みを感じつつ、遼真も一眠りした。  マンションに着き、遼真は馨を真っ先にベッドへ運ぶ。昔はおんぶも抱っこもできたのに、今は肩で支えて歩くのがやっとだ。それでも無事に馨を寝かせることができ、遼真はほっとした。しかしそれも束の間、遼真が体を離そうとした途端、何かを察知したらしい馨が手を伸ばして抱きついてくる。 「か、馨ちゃん? 寝惚けゆうがか?」 「んーん。寝惚けやせん」 「ほいたら放しとうせ」 「やーじゃ。放いたら、またわしを置いていくろう」 「お、置いてかんよ。やき放して」 「やじゃ! もう離れんで、りょーまぁ」  遼真が離れようとすると、馨は意固地になって放そうとしない。緩んで薄く開いた唇、仄かに染まった目元、蕩けた色っぽい視線。そういったものが至近距離で迫ってきて、遼真の理性には再び亀裂が入っていく。 「にゃあ、りょーまぁ……」  鼻にかかった甘え声がさらに追い打ちをかける。遼真は何度も生唾を呑み込んだ。胸が割れそうなくらい、心臓が激しく鼓動する。頭がくらくらして、目眩までしてきた。酷く息が乱れる。 「か、馨ちゃん……僕、もう……」 「うん?」 「放しとうせ……」 「どういてぇ?」 「もう、限界やき。こんままやと、馨ちゃんに酷いことしそうになる……」 「ひどいこと……?」  馨はぽーっと遼真を見つめた後、口をだらしなく歪めてにへらと笑った。 「にゃはは、ひどいことらぁて、りょーまがわしにするわけないちや」 「するよ……馨ちゃんの顔、今もうまともに見れんもん」  遼真が目を伏せると、馨は悲しげな声を出す。 「どういてじゃ。こっち見とうせ、りょーまぁ」 「……やき、そういうのがいかんち」  無遠慮に迫る馨の唇が、赤く熟した旬のイチゴのように遼真には見えた。うっすら濡れて、艶めいて、舐めたら甘そうだと思った。欲望を押さえ込もうと天を仰いでも、もはや理性の崩壊を止めることはできない。本能に敗北する。 「馨ちゃん……口、吸うてもえいか?」 「口? 吸う?」 「うん。こうするがよ」  まるで見えない糸で繋がっていたかのごとく、吸い寄せられるように唇を重ねた。瞬間、馨ははっと目を見開く。 「りょ、」 「好き……好きじゃ、馨ちゃん、好き……」  感情が溢れ出てどうにも止まらなかった。気づけば遼真は馨の上に完全に乗り上げて、その両手をベッドに押さえ付けていた。恋人繋ぎのように五本の指を交互に指を絡める。馨も遼真の手を握り返す。遼真は馨の薄い唇をちろちろと舐め、わずかに開いた口にぬるりと舌を滑り込ませた。唇も口の中も甘く熟れている。腰から脳天まで甘く痺れる。 「んふ……ん、んん……」  馨は苦しげな息を漏らす。眉を寄せて、表情も苦しげである。遼真はさらに奥へと舌を潜り込ませる。上顎や歯列を撫で、舌を絡め取って吸う。  するといきなり、馨が目を剥いて跳ね起きた。遼真に頭突きを食らわしてベッドから飛び降りる。そこから真っ直ぐトイレに駆け込み、便器に齧り付いて嘔吐した。息もつけないほど激しく咽せる。聞いているだけで胸が苦しくなるような猛烈な咳、濁った咳が暗い室内にこだまする。遼真はただ呆然と、瘤のできた額を押さえる。  一通り吐いてぜえぜえと喘ぐ馨に、遼真は水を一杯渡した。馨はまた咽せながらも、それをゆっくり飲み干した。 「……ごめんね、馨ちゃん」  馨はようやく顔を上げて遼真を見、しかし不思議そうに首を傾げる。 「……何を謝りゆうが?」 「ごめん。もう、しないよ」 「りょう……」  押し籠った低い声をさざ波のように震わせて遼真は言い、馨をそっと抱きしめた。まるで壊れ物を扱うように、そっと肩を抱く。馨は相変わらず状況を呑み込めていないような鈍い表情をしていたが、遼真の腕に素直に身を預け、やがて目を閉じた。

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